そしてそもそも、人の賢愚もまた、簡単に判別できる類のものではあるまい。歴史は勝者によって書かれる、と言うが、敗者は愚かで惨めに描かれるのが常である。そうした記録に触れる後代の者たちも、強く賢い者への憧れから、勝者に自己を投影し、敗者を嗤って、日常の憂さを晴らそうとするわけだ。その結果として、怪しい伝説は確乎と根づいていくのである。
設楽原古戦場の状況は、戦いの当時とは大きく変わっている。高速道路をはじめとする近代的な道路に囲まれ、また、様々な企業の大きな工場や学校なども作られた。もちろん、当時にはなかった多くの民家も立ち並んでいる。連吾川の東側には、広い駐車場を持つ設楽原歴史資料館も立つ。火縄銃をはじめとする当時の武具や、諸将の布陣を伝える絵図などを見ることができる施設である。
古戦場を見渡せるようにとの配慮からか、資料館の屋上は開放されているものの、そこへあがってみても、当時の将兵が見た光景はまるでわからなかった。なぜならば、両軍の諸隊が陣を敷いたとされる丘は、後代の植林によるものと思われる高い樹木に覆われているからだ。筆者は資料館だけでなく、古戦場周辺を移動しつつ、いくつもの高所を訪れてみたが、やはりどこも木々が鬱蒼と茂るばかりで、当時の戦いの全貌を想起するに相応しい眺望を得られはしなかった。ただ、連吾川沿いの田地だけが、当時の状況をわずかにいまに伝えていると言えるのだろうが、そののどかな様を眺めていても、数万の大軍がぶつかり合った状況を思い浮かべることは、なかなかに難しく感じられた。
だいたい、なぜ別の場所ではなく、この設楽原が両軍の決戦場になったのだろうか。信長が馬防柵を立て、大量の鉄砲を使った画期的な戦術を採用したとしても、なぜ、武田家はそこへ攻めかからなければならなかったのだろうか。かりに当初は織田・徳川軍を侮っていたとしても、前線部隊が分の悪い戦いをしていると見れば、突撃を中止し、撤退すればよかったではないか。なぜ、いつまでも敵陣に対する突撃をやめず、信玄の時代以来の主立った諸将がことごとく戦死するような戦い方をしなければならなかったのか。どれほど勝頼が愚物であろうと、そのことだけをもって、以上の疑問の答えとするには無理があると言わなければなるまい。
あのとき、いったい何が行われていたのだろうか。勝頼や信長、家康は、あるいは彼らの部下たちは、何を思い、どのような決断を下したのだろうか。設楽原の戦場の真相はどのようなものだったのだろうか。
それを語るために、まずは武田勝頼の父、信玄が存命していたころに戻ろうと思う。すなわち、勝頼が信玄の帷幕の将の一人にすぎなかった時代である。


木霊の声 武田勝頼の設楽原
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文藝春秋
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2025.07.30(水)