これらの疑義には、諸記録の写本の考証を根拠とするものももちろんあるが、設楽原古戦場の発掘調査を根拠とするものもある。三千挺の鉄砲を使って、何時間にもわたり連射がなされたにしては、出土する弾丸があまりに少ないと言うのだ。これには、「いや、鉛玉というのは戦国期には貴重品であったから、戦に参加していた士卒や地元の百姓が戦後に拾い集めたのではないか」という反論もなされているが。
鉄砲の数はともかく、「三段撃ち」についてもまた、専門家から疑義が呈せられている。火縄銃に精通する人々が三段撃ちについて実験してみても、そううまくはいかないというのだ。そもそもが、この「三段撃ち」の話は、設楽原での合戦からそうとう時がたった江戸前期に記された、小瀬甫庵の『信長記』に基づいている。それ以前には、記録はまったく存在しない。
伝説的に語られてきたことは怪しい、と主張する声は、これまでも多くあった。けれども、怪しい話もひとたび「定説」となってしまうと、なかなか動かしがたいものとなってしまう。観光パンフレット等の説明ばかりか、学校で用いられる教科書においても、この戦いは、先駆者信長が、鉄砲戦術を用いて新しい時代を切り開いたものと説明されつづけ、それ以外の説が受け入れられる余地はどんどん失われてゆく。
とりわけ、娯楽性を追求する講談、小説、漫画、映像作品などになると、信長の天才性は大袈裟に顕彰されて描かれ、対照的に勝頼は、名将として讃えられる信玄とは似ても似つかない、度し難い愚者として描かれるからだ。そして、勝頼は傀儡師に操られる人形のごとく、信長の計略にまんまと嵌まり、敗北するのである。それはあたかも、勝負は戦いがはじまるはるか以前に決まっていたかのようだ。
だが、どのようなささいな戦いであっても、勝負は将の賢愚によって簡単に決するものではない。戦局は刻々と変わっていくし、その都度の、人々の情勢分析や、決断の積み重ねが複雑にからみあった上で決着するものであるはずだ。
2025.07.30(水)