しかしながら、歴戦の武田家の将士が、武器としての鉄砲の有用性に気づいていなかったとは考えにくい。実際、勝頼の父、信玄の時代から武田軍が戦場において、さかんに鉄砲を用いていたことは、諸史料から明らかである。もちろん、織田家のほうが、交易の中心地や、鉄砲の産地を多く支配下に置いており、鉄砲や弾薬、弾丸などを集めやすかったとはいえるだろうが、武田軍が鉄砲を軽視していたというのは事実ではない。

 また、この当時に「騎馬戦術」なるものがあったかどうかということについても、多くの研究者から疑問が呈せられている。たとえば、かつて武田家の本拠であった、山梨県甲府市の躑躅ヶ崎館跡の発掘調査において、戦国期のものと思われる馬の骨が発見されているが、背の高さは百二十センチくらいに過ぎない。葬られ方が丁重であるため、子馬や育ちの悪い馬であったとは考えにくく、身分の高い人物が大切にしていた、当時の「名馬」と推測されるものだ。もちろん、そのような小さな馬であっても、軍の機動性を高められるわけで、当時においても戦場で馬が重宝されたことは間違いないだろう。けれども、馬に乗って突撃をかけるような戦術が戦国期に主流であったかどうかは疑わしい。しかも、設楽原の戦いが行われたのは梅雨時であり、前日まで雨が降っていて、川辺の戦場はぬかるんでいたと想定される。いかに騎馬の巧者であっても、馬を縦横に疾駆させて戦うことは容易ではなかったはずだ。「騎馬隊」なるものをもって組織的に突進し、柵を結いまわした敵陣地にぶつかるような戦い方ができただろうか。

 また当時、ヨーロッパから渡来した宣教師は、日本の騎馬武者は敵前で馬を下りてから戦う、との記録を残している。このことからしても、設楽原の戦いを「旧式の騎馬戦術」が「新式の鉄砲戦術」に敗れた戦いと捉えることには無理があると言わねばならないのだ。

 さらに、織田信長が用意した「三千挺」の鉄砲についても、近年では疑いの目が向けられている。実際には千挺であったのではないかとか、いや五百挺程度であったとか、中には実数はともかくとして、武田軍が所持していた鉄砲の数と織田・徳川軍が所持していたそれとは、さほど差がなかったのではないかという説もある。

2025.07.30(水)