「これまでパソコンのおかげで時間と労力を節約できたと思うが、それで儲けた時間と労力をいま何倍にもして支払わされているような気がする」(「パソコンが壊れた」)
そうだったのか。私は、儲けを失いたくない一心で平常心を失っていたのだ。あさましい。
家族から免許返納を勧められ、意固地になって抗う高齢者は私のまわりに何人もいる。あれほど高齢者の交通事故が頻繁に起こっているのだから、危険がいっぱいなのは小学生でもわかること。なのに、どうしてモメるのか。
「――なぜ高齢者は車に乗りたがるんでしょうか。
『ほかに楽しみがないんだ。仕事もさせてもらえない。ペットを飼おうにも、高齢だと保護犬も引き取れない。ジェットコースターにはまず乗せてくれない。公園に行ってベンチに座ると、いまのところ不審者と通報されるだけだが、そのうちブランコやすべり台も禁止になる(後略)』」(「免許返納を進める方法」)
そうだったのか。運転免許とは「自分の尊厳を守る命綱」。老化によって視力が衰えたとか、反射神経が鈍くなっているとか、そういう事実とは何の関係もないのだった。当の本人が一番よくわかっているのかもしれないが。
いちいち腑に落ち、すっきりしてゆく。「多様性の時代と言われるが、人間には多様なものを平等に受け入れる度量がないと思う」(「ゴキブリに敬意を」)という一文にも膝を叩く。「多様性」のみならず、便利な言葉はとかく胡散臭いもの。「哲学者は疑うのが商売」(「わたしはこうしてダマされなくなった」)と仰っているが、どうやら疑うことを止めたら敵の思うツボ。深遠な哲学的思考に裏打ちされた軽やかな文章のおかげで、どんどん我田引水。はっとして覚醒させられた言葉は数知れないが、とりわけ深い感動を覚えた一編は、感謝についての考察を綴った「感謝の心は必要か」。つい自分の行為にたいして感謝を求めてしまい、「お礼の言葉のひとつもない」などと腹を立てて相手への不信感を募らせるのは、悲しくも切ない人間の業である。そこへもってきて土屋先生は、実家は「感謝することがない家だった」。なにごとかをしても、とくに感謝されず、感謝を求めもせず、感謝がないと言って怒る者もおらず、感謝の心の不在を当たり前として家族関係が営まれていた……私は、涙がこぼれそうになった(比喩ではありません)。無私とか自己犠牲とか献身とか、そういう話ではない。とかくややこしい人間の位置関係が横並びになってすがすがしく、感謝にまつわる高低の感情が一掃されて救われたような気持ちになった。
2025.07.17(木)
文=平松洋子(作家・エッセイスト)