ここまで書いてきてあらためて思うのだけれど、どうやら日常はズレとの闘いの連続らしい。凡庸な例で恐縮ですが、ああ自分はつくづく愚かだと赤面するのは、毎朝クローゼットを開けるとき。洋服があれやこれや掛かっているくせに、「どうしよう、着る服がない」。ハンガーを指先で送りながら着たい服が見つからないと嘆息し、いいトシになっても洋服との折り合いに苦労する自分に軽く絶望する。こういうとき、しょっちゅう思い出すのが、知人から聞いた話だ。夫が袖口の擦り切れた流行遅れのコートを着続けているので、妻として恥ずかしくなり、「いくらなんでもみっともない。新しいのを買うべき」と非難がましく言うと、「洋服が増えると、着るときに迷うから、嫌だ」と却下されたという。私など、日頃「着る服がない」と自分を追い込んでいるのは自分自身だとわかっちゃいるのに、服を買うとスカッとする始末。学習や記憶の回路が壊れているとしか思えない。今後こういうとき、本書のタイトルをつぶやきながらうなだれるだろう――「記憶にありません。記憶力もありません」。
本書は、日常のなかに隠れ潜むズレや歪みをひょいとつまみ上げ、ヨレやシワを示し、笑いの粉をまぶしながら光と影を与えてゆく。「艱」「難」「辛」「苦」の四章で構成されており、生きることはすなわち「艱難辛苦」の連続ですと引導を渡されて、がっくり膝を折るわけだが、だいじょうぶ、私たちには土屋先生がいる。
つい一か月半前、十年近く使い続けてきたパソコンが壊れてあわてふためいた。その経緯を話し出すと長くなるので省くけれど、とにかく混乱と動揺に圧し潰されて人事不省に陥るほどだった。紆余曲折のすえ、新品のパソコンが動き出すまでの五、六日ほど錯乱状態のまま過ごしたのだが、本書のページをめくっていたら、すべてが腑に落ちた。
土屋先生はご自分のパソコン騒動を振り返り、静かに筆を擱く。
2025.07.17(木)
文=平松洋子(作家・エッセイスト)