『記憶にありません。記憶力もありません。』(土屋 賢二)
『記憶にありません。記憶力もありません。』(土屋 賢二)

 本書の解説の執筆者として、私がのこのこ出てきたのには理由がある。

 土屋賢二先生は「週刊文春」で「ツチヤの口車」を連載中、不肖私も同誌で「この味」と題したエッセイを連載している、というご縁によるものだ。さらに最近は、「ツチヤの口車」と「この味」がおなじ見開き、つまり右と左のページに隣り合わせに掲載されることしばしば。私は内心「わっ、今週も土屋先生のお隣!」と小躍りしているのだが、よく考えればそうとう図々しい。「ツチヤの口車」は千四百回になんなんとする長寿人気連載、いっぽう「この味」はその半分の七百回足らず。ひよっこが先達を隣人呼ばわりするなど、もってのほかである。

 ただ、お隣同士の喜びを隠しきれない自分もいる。

 じつは十数年前、一度だけ、土屋先生にお目にかかったことがある。当時の「週刊文春」担当編集者Yさんの結婚披露宴の参列者として同じテーブルについたのだが――ふたたび図々しい告白をお許しください――先生の佇まいは、今日までつよく脳裏に焼きついている。とくべつ大事な話をしたわけでもないし、もちろん「ツチヤの口車」に乗せられたわけでもない。穏やかな笑みを浮かべながら担当編集者の慶事を寿(ことほ)ぐお姿は、武装解除の気配さえ感じさせない柔らかな((ぜい)を漂わせ、なんと表わしたらよいか、穏やかさのなかに多重露光されたような人物像の膨らみがあった。ミケランジェロは、あるとき大理石のかたまりを指差して「このなかに天使が入っていて、外へ出してくれと叫んでいる」と言ったとか。ミケランジェロの言葉に(なら)えば、土屋先生のなかにたくさんの「土屋賢二」が存在している、そんな不思議な心地を受け取っていた。なにをワケのわからんことを、と言われるでしょうけれど、嘘偽りのない正直な気持ちです。

 勢いを駆ってさらに申せば、それまで土屋先生にたいして抱いていた予想が雲散霧消したことに動揺してもいた。お会いするずいぶん以前から「ツチヤの口車」を愛読していた私は、「ユーモアエッセイ」を(ひよ(うぼう)しながら(こわ()った思考をほぐし、目玉にへばりついたウロコをぺりぺりと()がす哲学者の言葉に畏れを抱いていた。なのに、丸テーブルの向かいの席につく土屋先生は(ひよう(ひよう)としてなごやか、分け隔てのない開かれた空気を漂わせていらっしゃる。ニンジャなのか? あわてた私は手前勝手な予想や予測とのズレを軌道修正するのに苦労し、その日の記憶を胸のうちに大切にしまいこんだ。

2025.07.17(木)
文=平松洋子(作家・エッセイスト)