この記事の連載

作品の随所にちりばめられた巧妙なギミック

――冒頭に「この世界に生きるすべてのいきづらい人へ」というメッセージが挿入されています。これはかねひささんのアイデアですか?

 僕の独断で入れました。まず、“いきづらい”という言葉を実は僕はあまり肯定していません。意味として広く、本当に死と生の瀬戸際みたいなものもあれば、簡単に「いきづらー」と言ってしまえる薄っぺらさもある。

 冒頭の薄っぺらさ、軽さは意図的に出しています。モールス信号の音とともに「結局優しささえあればいいと思う」という言葉の逆再生が流れる、不穏さを感じるイントロだったので、それに合わせてテロップも点滅させ、テロップ自体からもSOSを発しています。

 「いきづらい人へ」とエールを送る側の人間も余裕がなく、SOSを発している。その構図を意図的に取りました。「いきづらい」をひらがな表記にしたのは、「生きづらい」と「逝きづらい」のダブルミーニング。作品として「生きることを否定したくない」と思ったんです。

 つらいこと、しんどいことがあっても、否応なく時間は進んでいく。死にたいけど、死のうと思っても死ぬ勇気がなく、なんとか生きながらえてる人にも届いてほしかった。

 作中では背景に、踏切やビルの屋上、カラスなど、自死のモチーフを実写のスチールで意図的に入れています。どれも不穏なスチールですが、そういうものがあふれる世界の中で、なんとか踏みとどまっている。そんな人たちにあてた、そのままでいい、死なないでいてくれてありがとう、生きてほしいというメッセージを込めています。

――いろいろなギミックが入れられているんですね。

 作中のキャラクターたちは、ずっと音楽に振り回されているんです。自主的にキャラが動き出すのはラストだけ。それまで顔も全然笑顔ではないんです。それは社会の象徴でもありますが、この曲自体にキャラクターが振り回されているという演出をしています。

――自主性がなく上から言われた通りに振る舞う、社会の歯車として働かされる“ジャパニーズサラリーマン”さながらですね。

 あの場面でギリギリダンスを踊るのは本来、意味不明なんですよ。あれは曲によって踊らされているだけ。踊ることすら強制されている。ラストでやっと、キャラクターが走っていくシーンがあります。針山を飛び越えたり、SNS絶ちをしてスマホを置いて外に出たり。ここでやっとキャラたちは自主性を取り戻します。

 いろんな縛りから抜け出して、自分たちの自我を持って社会に立ち向かっていく。今まではSOSすら自分からは出せなかったけど、それでもなんとかやっていくしかない、明日を生きていくしかない。そういうことを肯定したい気持ちがラストに表れています。

 最後、4人のハートがモールス信号に合わせて飛び跳ねているんですけど、あれはあえて4つのハートの動きをずらしています。それぞれが自由なタイミングで跳んでいる。それは個性や自我の表れです。

――綿密にメッセージが込められていて驚きました。知って鑑賞すると作品の良さがさらに増すようです。そしてそれを読み取ろうとしなかったら単純に映像として面白く、楽しく見えるところも素晴らしいです

 ありがとうございます。僕がアニメーションにおいて一番大事にしていることは楽しさなんです。今幸せでいる人が、何かを見て引きずられて不幸になる必要はない。つらさをSOSとして出す必要はあるんだけど、 何も知らない人は楽しく見てほしいという気持ちはやっぱりあったので。表層だけ見ても楽しめる作品には意図的にしています。

2025.01.25(土)
文=綿貫大介
画像=かねひさ和哉