蔦屋重三郎は生涯、経営者としての版元であるだけでなく、優れた「編集者」であった。編集には、その先への「たくらみ」がある。
たくらみは「企」と書き、つまりは「企画」「目標」「目的」と呼んでも良いわけだが、「企画」は企業のものとされ、「目標」は営業マンのものとされ、「目的」は政治家のものとされる。そのどれもが「カネ」を得るためだ。しかし編集者にカネは降ってこない。カネがかかるだけである。
では蔦屋重三郎の編集は、何をたくらんだのか? 上方から伝わり、江戸で生まれ変わった江戸っ子のための江戸文化を、メインカルチャーとしての上方伝統文化に対峙した、堂々たるサブカルチャーとして作り上げ、守ることだった。
その時「守る」とは、まだ「表現の自由」という言葉を持たない時代における、幕府の「治世完璧主義」から守ることである。つまりは秩序優先、事なかれ主義の権力と対峙することだ。蔦屋重三郎の根の国すなわち生まれ育った場所は、吉原である。吉原は「悪所」と呼ばれた。芝居町もまた、「悪所」であった。悪所に生きる者たちこそ、悪所を守る気概を持っていたのである。悪所には江戸文化が凝縮していた。しかしそれは、権力に立ち向かう「思想」などではない。江戸文学を深く理解していた作家の石川淳の言い方にならえば、そんなふうに思った途端、つるりとすべって小バカまわしにされる。彼らは思想においてではなく、日常生活において「別世」を作ってしまったのだ。
政権や常識に反対表明しつつ対抗言語を掲げること、つまり「声を上げ続けること」は、現代ではとても大事なことだ。そうしないと、別の価値観があり得ることに気づいてもらえないからである。江戸では、どうしたか。編集したのである。境界を定め、地図を作り、集め、結合し、相似したものを見つけ、比喩し象徴し見立て、競わせ、装飾し、強調し、俳諧(諧謔)化し、哄笑し、気がついたら政権の思惑とは全く違う世界が、悪所にはできていた。喜ぶべきことに、浮世絵や本を売る絵草紙屋も「悪所」のひとつになっていた。
2024.11.09(土)