次に朱鷺が何を言うか、トンボはもうわかっていた。

「明日の朝、聞きに行かん?」

 そして自分がどう答えるかもだ。

「いいよ」

「ほんと、よかった。そんなら五時前には起きんとな」

 朱鷺がはしゃいだ声を上げた。正直なところ、置屋の朝食が始まるまでゆっくり眠っていたいのだが、朱鷺の頼みとなれば仕方ない。

 浩介との別れ以来、どれだけお座敷で愛想を振り撒いていても、暗い影が朱鷺を包み込んでいた。夜中、布団の中で声を押し殺して泣いていたのも二度や三度ではない。声を掛けようにもうまく言葉が見つからず、トンボはただ黙って寄り添っているしかなかった。そんな朱鷺が少しでも気が晴れるというなら、カキツバタを見に行くぐらいおやすい御用ではないか。

 翌朝、ろくに眠らないままふたりは梅ふくを出た。辺りはまだ薄暗く、ひんやりと湿った空気が通りを覆っていた。人影はなく、物音ひとつしない。花街はまだ深い眠りの中にある。

 ひょうたん池には子供の頃によく行っていた。めだかを追ったり子亀を見つけたりして遊んだものだ。しかしそれもたあぼの頃までで、十二歳で振袖芸者としてお座敷に出るようになってからは、そんな機会もなくなった。

 天神橋まで出てふたりは坂道を登り始めた。相変わらず石ころだらけの荒れた山道で、下駄の鼻緒が食い込んで指の付け根が痛くなった。

 十五分ほど登るとひょうたん池が現れた。周りを背の高い木々が囲み、新緑が風に揺れて白い葉裏を覗かせていた。池はさほど大きくないが、澄んだ水をたっぷり湛えていて、かつての様子と少しも変りない。水際には、みっちりカキツバタが咲いていた。

「きれいやなぁ」

 朱鷺が声を弾ませた。

「開きそうなのはどれやろ」と、花を覗き込みながら水際に沿って奥へと進んでゆく。その後ろをトンボはあくびをこらえながら付いていく。池を半周ほど回ったところで、朱鷺はようやく足を止めた。

「この辺りのなんか、今にも咲きそうや」

2024.10.31(木)