介護から目を逸らしてきた
介護に対して抱くイメージは、暗く重いものばかりだ。排泄、おむつ交換、食事、入浴、洗濯、掃除、ゴミ捨て、服薬、通院──。日常のあらゆることを誰かにサポートされながら暮らすかも知れない、将来の自分を想像するだけで心が沈む。そのため私自身も、自分の将来を意識的に考えないようにしてきた。
「日本には介護保険制度があるから、いざとなったら何とかなるはずだ」
「動けなくなる前に老人ホームに入ればいい」
そう思うことで自らの思考を停止させ、これまで介護から目を逸らしてきた。これから関わっていくであろう、親の介護についても、イメージすら浮かんでいなかった。
だが二〇二一年、そんな私に突然、介護の問題が降りかかってきた。母親が自宅の階段から転落して救急車で運ばれたと、父親から連絡があったのだ。東京の郊外に夫婦二人で暮らす母親は、数年前から指定難病のパーキンソン病を患っており、身体が思うように動かなくなっていた。これまで実家では、一緒に暮らす父親が、買い物や炊事、洗濯、入浴の介助など母親の世話を行っていた。父親も健康なわけではなく、心臓に持病を抱え、加齢のせいもあって足も弱っている。いわゆる老老介護の状態であった。
自宅の階段から転落した母親は、腰椎の一部を骨折して約一か月の入院となった。これを機に、私は半ば強制的に、介護と向き合わされることになったのだ。
しかし、向き合うにしても、向き合い方もわからない。介護保険を利用するために、どういう手続きを経て、何を計画し、どう行動すればいいのか。そもそも介護保険が私の親に何を提供してくれるのかも明確に答えられなかった。そうした介護のイロハを調べることから、私の介護との関わりはスタートした。
人材も財政も危機的状況にある
介護を巡る日本の現状は「安心」とはほど遠い。むしろ危機的な状況だ。
「介護はカネ次第。カネがなければいい介護は受けられない」
2024.06.06(木)