熊楠は著作や標本、日記など、大量の資料を遺している。私はそれらと格闘しながら、構成を練った。熊楠と名のつくものを片端から読みあさり、その生涯を描くための要素を取捨選択した。自分なりに綿密に準備を整えたうえで、執筆に入ったのだ。
しかし、である。
書いているそばから、熊楠は当初の構成を無視して自由に動きはじめたのだ。小説のなかの熊楠は好き勝手に暴れまわり、紀州弁をまくし立てる。まるで私ではない何者かが、私の肉体を借りて執筆しているようだった。小説を書いていて「怖い」と思ったのは、初めてだった。
かつてない執筆体験をさせてくれた『われは熊楠』は、やはり私にとって特別な作品だと言わざるを得ない。
本作が特別な位置を占めている理由は他にもある。
熊楠が生まれ育った紀州は、私の父母の出身地だ。また熊楠が研究対象とした菌類は、私の大学院時代の研究テーマでもある。共通のバックグラウンドを持っているという意味でも、熊楠には思い入れがある。
ただし、彼が後半生を過ごした和歌山県田辺市には行ったことがなかった。父母の出身は県北の和歌山市であり、南紀の田辺はやや離れている。
私は『別冊文藝春秋』で本作を連載する前に一度、連載後の改稿中にもう一度、田辺に足を運んだ。滞在中は、熊楠が歩いた鬪雞神社や高山寺、扇ヶ浜といった各所を巡ることができた。寺社に漂う静謐さや浜辺に吹く風の冷たさは、熊楠の心根を想像する最上の材料となった。南方熊楠顕彰館にもご協力いただき、貴重な資料の数々を閲覧することもできた。
何より幸運だったのは、南方家と縁がある橋本邦子さんと知り合えたことだ。𣘺本さんは熊楠や関係者たちの暮らしぶり、かつての田辺市の様子について細部まで教えてくださっただけでなく、方言に関する助言までしてくださった。この場を借りて御礼申し上げたい。
二度の田辺行では、二度とも熊楠の墓に参った。高山寺の墓地にある熊楠の墓石はいたって質素で、朴訥としている。だがそのたたずまいこそが、「知の野人」にふさわしく思える。熊楠には、装飾も能書きも必要ない。「南方熊楠である」というその一事によって、彼の存在は光を放ち続ける。
2024.05.31(金)