そんな経験もあったからか、『ナースの卯月に視えるもの』で作家デビューが決まり、刊行に向けて改稿を進めているとき、私ははじめて小説を書くことが「怖い」と感じた。相手の状況も立場も何もわからない人に、私の言葉が届く。その言葉は、ちゃんと正しく選択されているだろうか、配慮できているだろうか、悪い影響を与えないだろうか。また、「病気」や「死」がコンテンツとして消費されていると思われないだろうか。不安はいくつもあった。noteで自分が楽しむために小説を書いていたときには、抱いたことのない感情だった。
デビュー作『ナースの卯月に視えるもの』は、「看護師」と「完治しない病気」というテーマを掲げているから、デリケートな内容になることは避けられなかった。「死」や「思い残し」「残された人の気持ち」などを扱う上で、物語やテーマから伝わるメッセージが読む人の誤解を招いたり、誤って解釈される可能性もある。読む方を暗い気持ちにしてしまう小説にはしたくないと思っていたけれど、だからといって「病気」や「死」を明るく楽しいポジティブなものとして書きたいわけではなかった。人が病気に立ち向かうときには苦しいことも多いし、死に直面するのは怖い。看病する家族も大変だ。でも、その中には希望もあった。私はこの小説を通して、その希望のほうに、しっかり光を当てたかった。残された時間を家族と過ごすとき、周囲との何気ない会話で患者さんに笑顔が生まれるとき、たしかにそこにはあたたかく安らいだ空気があった。看護師時代、私はそんな場面に出会うたびに、その和やかな情景をひっそり心に溜めていた。そして仕事が辛くなったとき、自分自身を照らしてくれる灯りにしていた。
看護師の小説を書くと決めたからには、その希望を書きたい。そして、読者の心を少しでもあたたかく照らしたい。そう願いながら、一つ一つの言葉を吟味して書き進めた。
小説は、読んだ人の分だけ解釈があり、響き方はそれぞれ違うだろう。だから、私がどれほど願いをこめようと、届くかどうかはわからない。著者の手を離れてしまえば、小説は読者のものだ。それでも、私の小説が読者の方々の心にあたたかく優しいものをお届けできたらと、強く願っている。
秋谷りんこ(あきや・りんこ)
1980年神奈川県生まれ。横浜市立大学看護短期大学部(現・医学部看護学科)卒業後、看護師として10年以上病棟勤務。退職後、メディアプラットフォーム「note」で小説やエッセイを発表。2023年、「ナースの卯月に視えるもの」がnote主催の「創作大賞2023」で「別冊文藝春秋賞」を受賞。本作がデビュー作となる。
ナースの卯月に視えるもの(文春文庫 あ 99-1)
定価 847円(税込)
文藝春秋
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2024.05.22(水)