自分がつくりたい酒ではなく、飲む人に合わせた酒をつくろう

――杜氏となれば蔵人を率いていく立場であり、自分で好きなお酒がつくれる楽しみがあるでしょう。

 ところがね、わしが静岡でつくっていた酒は東海らしく端麗ですっきりした酒だったんですよ。そういう綺麗な酒を「菊姫」でもつくろうと意気込んでいたら、「こんな薄い酒を飲めるか」と怒られてしまいましてね。石川で求められていたのは、山の中に入って仕事する男たちが1日の終わりに一升瓶を囲んでみんなで飲むような……つまりは濃くてまろやかな酒だったんですね。その時にわしは自分がつくりたい酒ではなく、飲む人に合わせた酒をつくろうと考え方をガラリと変えたんです。今思えば、杜氏になって1年目で失敗したのは幸運なことでしたよ。

 どうしたら飲む人を喜ばせることができるのか――考え続けて、たどりついたのは山廃(づくり)でした。山廃っていうのは、当時はもう廃れていて、誰もつくらなくなっていた古いつくり方なんです。今も、速醸づくり(もろみが腐ってしまう腐造のリスクを減らし、製造期間を約2週間短縮できる)が主流でしょう。でも、山廃づくりには特有の酸味、旨味、ほど良い重厚感、味わい深さ、そしてキレがある。これだ、と思って京都へ3年間、習いに通いました。

――映画の中でも農口杜氏は山廃の純米大吟醸酒をつくるためご苦労されていらっしゃいました。

 あぁ、そうでしたか(笑)。今また山廃でやろうと言うのは、日本酒の飲まれ方が変わってきたからでもあるんです。最近はありがたいことに海外でも日本酒を飲んでくださっていますが、そういう方はどんな時に飲むか、というとほとんど食事をしながらでしょう。つまり食中酒としての日本酒に何を求めるのか……それは油を切ってくれるキレだったり、食味を補う酸だったり、いままでのそれだけで飲んで美味しい日本酒とはちょっと違ってくるわけです。

 わしはある時、お客様にロマネ・コンティをご馳走になったことがあるんですが、その香り・味わいが大きく、舌を刺すほど強く広がることに心底驚きました。あの体験も自分のなかでは忘れられず、これからつくってみたい酒と言えば、いつもあのワインを思い出しますね。

――70年以上お酒をつくり続けてこられて、まだつくってみたいお酒があるというその情熱に頭が下がります。先日(2023年12月19日)は「吟醸づくりにおいて極めて卓越した技能を示しつつ、90歳を超えた今も現場の一線にたち、後継者育成にも尽力している」と文化庁長官表彰をお受けになりました。

 自分ではまだまだ道は半ばだと思っています。日本でも日本酒を飲むスタイルはどんどん変化していますからね。「飲む人のための日本酒をつくる」はこれからもずっと変わりません。

――ところで農口杜氏は毎年1年の約半分を酒蔵で過ごされていますが、お酒をつくらない残り半分はどんな風に過ごされていますか。

 休日の日課は散歩と近所の温泉に行くことくらい。若いころは1年に7カ月ほど酒蔵で暮らしていたので、自宅ではゆっくりしています。わしは21歳のときに結婚したのですが、一度の見合いで結婚して、すぐに酒蔵へ行ってしまったので、さてわしの奥さんはどんな顔だったかな、と思い出そうとしても思い出せないくらいだったんですよ。

――今はさすがに少しゆっくりできる時間も増えてきたと思いますが、奥さまは農口杜氏にとってどんな存在ですか。

 どんなって……別になにも。「そこにおるな」というくらいで(笑)。

――それは照れてらっしゃるのだと思いますが(笑)。映画の中では今までの人生を振り返ると「夢のようだ」という言葉がありました。そのお気持ちは撮影から3年経った今も変わらずでしょうか?

 そうですね。今振り返ると、良いことしか思い出せません。なんだか夢のような日々でしたね。


 今までの半生を振り返り「夢のようだった」と語る農口杜氏の言葉からは「邯鄲の枕」が思い起こされる。これはある若者が、夢が叶うという枕を手に入れたことから始まる中国の故事だ。みるみる出世し、子や孫にも恵まれ、幸福な生活を送った彼は、高齢となり多くの人々に惜しまれながら眠るように死んだ。ふと目覚めると、寝る前に火に掛けた粥がまだ煮上がってさえいなかった。すべては夢であり束の間の出来事であった……という物語だ。これは一般に、人の一生など一炊の夢に過ぎないと人生の儚さを教えるエピソードだとされているけれど、本当にそうだろうか。

 私が農口杜氏に初めて会ったのは2020年。当時87歳だった杜氏は私にお酒をすすめながら「どうですか」と必ず感想を求めてきた。私のような素人が意見を述べるなどおこがましい……とひるんでいると、重ねて「どこを改善したらいいと思いますか」とたずねる。相手がどんな立場の人間であれ、「飲む人のための酒」を追い求める姿勢は変わらないのだ。かつて教本を丸憶えしたという農口杜氏は酒づくりという一本道に70余年もの間打ち込み、そしてこれから先も「もっと良い酒をつくりたい」と、その教本を今も手元から離さない。そのような人の夢は決して儚くはないだろう。濃くて、まろやかで、キレもある。まるで農口杜氏のつくる酒のような、濃密な夢だ。

「NOGUCHI -酒造りの神様-」

「杜氏・農口尚彦」。誰も味わったことのない最高の日本酒をつくりたい――。そんな祈りにも似た思いとともに70年余り、人生のすべてを捧げ、ただひたすらに酒づくりに打ち込んできた。完璧な酒を追い求める男の終わりなき探求の旅。そして、その技を継承すべく加わった若き弟子たち。カメラは一年間に渡り、酒蔵に密着。小松の厳しくも美しい四季を背景に酒づくりの神様とその弟子たちによる格闘のすべてを記録。これまで誰にも見せなかったその仕事の神髄をつぶさに見つめる。

Amazonプライム・ビデオ、U-NEXT、HuluのTVOD(都度課金サービス)やLeminoなど、各動画配信サービスにて2023年10月31日(土)より配信中。

https://noguchi.movie/

農口尚彦(のぐち・なおひこ)

1932年、石川県能登半島の杜氏集団の集落に生まれる。「農口尚彦研究所」杜氏。“酒づくりの神様”の異名を持ち、能登杜氏四天王の1人と称される。2006年「現代の名工」認定、厚生労働大臣表彰受賞。2008年、黄綬褒賞受賞。90歳を越えた今もなお現役で酒づくりを続ける伝説の杜氏。

2023.12.29(金)
文=秋山 都