弟の声でした。
「魚町4丁目のほうが、燃えてる」
「えっ」
そんなはずがない…。息子と目を合わせました。夫の視線を感じます。弟の声が、わたしの耳に響きます。
「すぐ、降りてきて」
「わかった」
「マンションの下に、迎えに行くから」
炎と煙の中で影のように揺らいでいる
夢中でした。酔いは一瞬にして、さめています。ごはんを食べかけのまま、急いで着がえました。化粧もせず、「火を消したよね」と、そこだけを確認して、家を飛び出しました。
旦過市場は、北九州の台所。4月の火災の傷も癒えないうちに、二度も続けて起こるなんて、信じられない…。
昭和館は大通りから、路地を入ったところにあります。消防車もきていたので、クルマは近寄れません。
大通りの反対側の歩道から、昭和館が、影のように揺らいでいます。建物のすぐ後ろの旦過市場から、炎が出ています。煙も見えました。強烈な匂いも漂っています。
うちが火元だったら、わたしは生きていけない。
映写機も、フィルムも、数多のサイン色紙も…
やがて市場の火がひろがり、歴史ある建物が、炎に包まれます。消防車が放水をはじめたので、機械はダメだと覚悟しました。35ミリの映写機も、ずいぶんと高価だったDCP上映機器も、お預かりしていたフィルムも…。たくさんの映画人のサイン色紙も、高倉健さんからいただいた手紙も、特製のアイスクリームやポップコーンやマドレーヌも…。
映画館の悲鳴が聴こえました。
88歳の父に、わたしは電話をかけています。
「燃えてる。うちはダメ…。もう、もう、焼け落ちた…」
父は、冷静でした。
「焼けたものは仕方ないじゃないか」
このときの映像が、テレビに何度も流れています。不思議なもので、あれが追体験のようになって、いまではどこか他人事のように思えるのです。
父は二代目館主として、映画館の栄枯盛衰に立ち会っています。あとで知ったのですが、わたしが「こなくていい」と言ったのに、父はひとり、燃え落ちる映画館にむかっていました。この現実を、自分の目で確かめるために…。
2024.01.09(火)
著者=樋口智巳