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留守電に何件もメッセージが…公演のあとに起きたこと

 本当に文句なしの第一回公演が終わり、楽屋に行くと、高揚したメンバーと、関係者がズラリ。「これは絶対、テレビ番組にできるよ」「アイドルみたいにグッズも売れるんじゃない?」と盛り上がっていました。

 打ち上げも終わり、事務所に戻ったときは、自然と「ふぅー」と声が出るぐらいヘトヘトでした。松本とも「これを機にK‒PROもしっかり強くしていって、ユニットの足を引っ張らないようにしよう」と話して、「さあ、これからだ」と、とにかく先しか見てませんでした。

 そんな最高なライブの翌日、目覚めるとケータイの留守電に何件もメッセージが入っていました。聞いてみると、全部仕事の話でした。

「ニュースサイトの◯◯です。是非FKD48のインタビューをお願いしたいです」

「FKD48をイベントに呼ぶとしたらいくらぐらいになりますか?」

「是非FKD48の公演をDVDにさせてください!」

 これはすごいことになったと思いました。

 当時は有料配信のシステムもなく、開催したライブをDVD化して販売するのが主流でしたが、誰でも出せるわけではなく、DVD化できたら「一流の証」という空気がありました。結局、色々な事務所に所属する芸人さんが沢山出演していたので、権利の問題もあり、残念ながらDVD化は幻に終わってしまったのですが、「FKD48はお金を生み出すコンテンツ」と判断されたことが、とても嬉しかったです。

 その後、メンバーの脱退などもあったのですが、このユニットでの活動を広げていこうと思っていた矢先、FKD48にとって最大のダメージとなる出来事が起こってしまいました。2011年3月11日、「東日本大震災」です。

公演が中止になり、巨額の負債を抱えることに

 第一回公演が大反響で、余韻が冷めやらない中、「渋谷伝承ホール」で開催する予定だった第二回公演の3日前のことでした。

 チケットも即日完売し、メンバー総選挙の投票も本当に沢山いただいていましたが、公演の中止を決断しました(FKD48以外の公演予定だったライブも全て、3週間ほど中止にしました)。

 中止となっても、会場費は全額支払わないといけませんでした。その後のコロナ禍のときのように支援金も出なかったので、全て自己負担です。規約に書いてあったので仕方ないですが、当時のK‒PROは今と違って完全に自転車操業だったので、ダメージはかなり深刻でした。収入がゼロ、場合によってはマイナスになることが何よりも一番厳しかったのです。

 FKD48はメンバーの人数も多く、スケジュール調整もかなり難しいので、振替公演をするとしても、出演者の変更の可能性も考えなければいけません。そのため、チケットの払い戻しの対応も必要になり、その分の手数料のマイナスも出てしまいます。とんでもない負債を抱えて追い詰められてしまいました。

 余震の恐怖や、節電のため派手な照明が使えないなどはありましたが、K‒PROも震災から3週間後にはライブを再開しました。

2023.12.24(日)
著者=児島気奈