妻の出身地である杭州は上海に近い都会であり、アリババの本社があることでも知られる。景勝地としての西湖が有名で、地元民の憩いの場でもあるそこには、休日ともなれば多くの観光客が押し寄せる。間違えて休日に行ってしまうと、肝心の湖が見えないほどの人込みになるので注意が必要だ。
初めて中国を訪れた時に見た西湖の豊かさは、僕の心に大きな印象を残した。その美しさを描きたくて『無限の月』の舞台とした。西湖の美しさに魅せられたのは中国の偉大な詩人たちだけでなく、谷崎潤一郎も『西湖の月』という短編をしたためている。そこに並ぼうというつもりはないが、もし僕の小説を通して、誰か一人でも西湖に興味を持ってくれれば幸いである。小説には書ききれなかった―というよりも西湖には見どころが多すぎるくらいなのだ―が、「西湖十景」で検索して頂ければ、素敵な画像がいくらでも見つかるはずだ。
ところでこの西湖十景だが、そのうちの一つである雷峰塔を嫌っていたのが、かの有名な魯迅である。この塔が崩れたと聞いて『墳』に収められている雑文の中で「ざまあ見やがれ」と書いたほどである。そもそも倒れる前の雷峰塔が美しくなかった、塔にまつわる伝説である白蛇を封印した僧を憎んでいた、塔が崩壊する理由となった民衆の浅ましい行為が気に入らなかった、と魯迅が雷峰塔を憎々しく語る理由はいろいろあるようだ。
一九二四年に雷峰塔が崩壊したのは、この塔の煉瓦が迷信の対象になってしまったからだ。人々は塔を訪れては、それがまるで御守りであるかのように煉瓦を持ち帰った。その結果として塔は崩壊したのだ。魯迅はその行為を「奴隷的な破壊」であると指摘した。たとえ国が豊かになって塔が再建されようとも、人の精神が変わらなければ国は変わらないだろうと憂慮した。ちなみにこの塔は二〇〇二年に再建された。
そんな魯迅だったが、彼の銅像もこの雷峰塔と同じく西湖にある公園内に建てられた。魯迅の銅像はもともと公園の人目につく場所に設置される予定だったが、「人が大勢訪れて砂ぼこりが立つような場所に置かれては魯迅先生がかわいそうだ。先生に砂ぼこりを食べさせるつもりか!」と住民から非難の声があがったそうで、人通りが少ない、落ち着いた場所に移動させられたとのこと。僕は実際に魯迅像を見ていないので、どの場所にあるのか把握していない。魯迅の視線の先に、彼が猛烈に嫌った雷峰塔がないことを祈るばかりである。
2023.11.15(水)