何もないだけではない。その空白では社会の負の部分が凝縮されている。朴の父親は子供たちに躾と称した暴力をふるい、弟は同級生から酷いいじめを受けてひきこもっている。そんな朴は物語の冒頭、ベンチで眠りこける、血だらけの服を着た女性と、彼女に抱かれた子供に遭遇する。怖気付いて親子を起こすことが出来なかった朴は、その後、夫を刺殺して、子供と逃げていた妻が拘束されたニュースを知る。そんな朴は〈ニューロマンサー〉というラッパー・ネーム(説明するまでもなく、これもウィリアム・ギブスンの小説のタイトルからの引用だ)を名乗り、東海駅近くの公園で行われている〈東海村サイファー〉(“サイファー”とは、輪になってフリースタイル=即興のラップをリレー形式で行うこと)に参加している。そこでは誰も〈ニューロマンサー〉の本名は知らず、朴もまた仲間たちの本名は知らない。彼らはそこで現実から解放されているわけだが、朴はそのサイファーの主催者がブッキングしてくれた初めてのレコーディングで地獄を見ることになる。しかしその場で彼女は大麻栽培プロジェクトという、閉塞的な“村”から抜け出すためのもうひとつのチャンスを掴む。
朴にとってのラップ・ミュージック、矢口にとっての映画、岩隈にとっての漫画……あるいは本作にちりばめられた膨大な引用は、このクソな現実とは別の世界へと続く扉の鍵である。ただ、その鍵は無数にあり、間違った扉を開けてしまえば、更なる地獄が待っている。むしろ、諦めて“村”で生きていった方が幸せだったのかもしれないと思うほどの。文化は時にひとを救うが、時にひとを殺す。
『万事快調』を読みながら思い出したのは、二〇一六年に取材で本書の舞台と同じ茨城県の土浦市を訪れた際のことだった。ちょうど台風にぶつかってしまい、酷い暴風雨の中、車で取材場所に指定された人気のない風俗街にある居酒屋にようやく辿り着くと、出迎えてくれたのは全身を―顔さえも―タトゥーで彩った青年。彼はその夜、訥々と、しかし詳細にそれまでの人生について語ってくれた。少年時代、母親は夜の仕事をしていたのでいつも家にいなかったこと。父親には暴力を振るわれていたこと。家にいたくないので、あてもなく繁華街を徘徊しては、喧嘩に巻き込まれていたこと。そんなある夜、ふと入ったクラブで観たラッパーのライヴに衝撃を受けたこと。自分もやってみたいが、やり方が分からず、インストゥルメンタルのビート(ラップが乗っていないトラック)が入ったCDを万引きして、それに乗せてひたすら練習を繰り返したこと……。数年後、青年が取材時も一緒にいたパートナー―やはりタトゥーだらけの女性―と結成したユニット〈ゆるふわギャング〉のサイケデリックなサウンドを聴き、その後の成功を見て、彼は別の世界へ抜け出せたのだと思った。
『万事快調』はエンターテインメントとしても優れているが、決して絵空事ではないのだ。この物語もまた読者にとって、そのひとなりの鍵になる可能性を持っているだろう。
2023.06.29(木)
文=磯部 涼(ライター)