私が通っていたような男子校、それも地方の進学校は絶対的に平和な場所だったと思う。生徒同士がもめる要素が基本的にないからだ。恋のさや当てもなければ、片思いのつらさもない。性欲をもてあますことはあっても、個人で処理する分には誰にも迷惑をかけないし、周りは童貞ばかりだったので「経験」を焦る必要もない。同性同士の恋はあったかもしれないが気づかなかった。一部にアイドル的な人気の「かわいい」男子はいたが、せいぜい遠巻きに見て、陰で「かわいいね~」と言い合うのが関の山。勉強はどうかといえば、お互いに「していない」風を装ううち、実際にしなくなる(浪人すればなんとかなると誰もが思っていた)。そのくせ大学受験を口実に部活に打ち込む生徒は少ない。いじめもない。そもそも他人に興味がない。平和ではあるが退屈な毎日だった。茫漠とした砂漠のようなものである。

 しかし『青春とは、』の虎水高校には緑の山河(そして湖も)がある。男子と女子の性に対する意識のギャップ、誤解と勘違いといった素朴なエピソードも面白いし、明子が画策するミッシェル・ポルナレフのコンサートへの道はもはや大冒険である。なんと物語があふれていることか。むろんそれは小説家、姫野カオルコがつくりあげた世界なのだが、読んでいる間はつゆほども疑わず、本当にあったことのように思って読んでいた。

 そして、次第に語り手の乾明子なる人物への興味が湧いてくる。年齢、地域、家族構成など、作者である姫野カオルコと重なる部分が多い。ゆえに、作者の実体験が反映されていると想像できるが(刊行後のインタビューなどで作者本人もそう語っている)、明子はシェアハウスに住むスポーツインストラクターである。その点でははっきりと別人なのだが、高校時代を分析し、「青春とは、」と論じていく思考の流れは、これまでの姫野カオルコ作品と共通するものがある。すると、作者は、もしかしたらあったかもしれない自身の進路のうち、その一つを明子に歩ませ、平行世界に生きるもう一つの存在として明子をつくりだしたのかもしれない。明子という名前なのに「暗子」のほうが合っていると言われる「もう一人の自分」を。

2023.05.30(火)
文=タカザワ ケンジ(ライター)