この記事の連載

 「宝塚を卒業した私を待っているのは、どんな現実なのだろう」——自身も元タカラジェンヌである早花(さはな)まこさんが、卒業生たちに聞いた“宝塚のその後”の人生を綴る。今回お話を伺ったのは、華のある立ち姿と演技で人気を集めた元月組男役の中原由貴(芸名:煌月爽矢)さん。


不合格になることを考えていなかった

 宝塚歌劇団に入るためには、宝塚音楽学校の試験を突破しなくてはならない。宝塚受験のための予備校では、バレエと声楽だけではなく面接の練習まで行われ、夢を抱いた多くの若者がレッスンに励んでいる。限られたチャンスをつかもうと、人生を左右する試験に挑む受験生が集まる会場は空気が張り詰めていて、自信を失い恐ろしいほどの緊張に襲われるのも当然という状況だ。

「私、ぜんっぜん緊張しなかったんですよ」

 そう言う彼女に、思わず理由を尋ねた。

「それがね、私、自分が不合格になることは考えていなかったんです」

 決して自信満々だったわけではないのだと、必死に説明を続ける。彼女曰く「ド厚かましかった」その思いは、はっとするほど純粋だった。ただ「宝塚に入りたい」と願い、試験を受けている間も「いよいよタカラジェンヌになれる」と溢れんばかりの喜びに満ちていた。そんな当時の自分に苦笑いを浮かべ、ふいに彼女は目を細めた。

「それぐらい、夢だったんですよ」

 容姿端麗、歌と踊りの技術、適性があるか。そんな、宝塚音楽学校の「募集要項」に書かれているようなことを意識したことはなかった。眉毛が繋がっていて全く洗練されていない姿だったのにね! と、彼女は吹き出す。

「私には、宝塚に入ることしか、夢がなかったから」

 屈託のないその笑顔に、希望ではち切れそうだったかつての少女の姿が重なったような気がした。

タカラジェンヌになるしかない

 中原由貴さん。東京都世田谷区出身の彼女は、「煌月爽矢(あきづき・さや)」の芸名で、2016年まで宝塚歌劇団月組の舞台に立っていた。その名の通り、明るく爽やかな雰囲気をまとい、華のある立ち姿と演技で人気を集めた男役だった。「ゆうき」の愛称で親しまれた彼女は、宝塚を卒業してから本名での活動を始めた。現在は単身で台湾へ渡り、俳優、モデルとして活躍の場を得ている。

中原由貴(なかはら・ゆうき) 東京都世田谷区出身。元宝塚歌劇団男役スター。宝塚卒業後は単身台湾に渡り、モデル・ダンス講師として活躍している。©︎新潮社
中原由貴(なかはら・ゆうき) 東京都世田谷区出身。元宝塚歌劇団男役スター。宝塚卒業後は単身台湾に渡り、モデル・ダンス講師として活躍している。©︎新潮社

 夢を見つけたらまっしぐら、「できるかできないか」は後で考える……というよりも、「できる」しか考えない。どこまでも前向きな中原さんが、なんとしても叶えたい夢に出会ったのは、小学校6年生の時だった。

 きっかけは、宝塚ファンだった母に連れられて観劇した1998年の月組公演「WEST SIDE STORY」だった。初めて観た宝塚の虜になった中原さんは、劇場からの帰り道で早くも「絶対に、ここに入る!」と決意を固めていた。小学校から習っていたバレエのレッスンにいっそう力を入れるなど、宝塚への憧れを募らせ、高校生になると声楽も習い始めた。

 とはいっても、15歳ですぐには受験しなかった。「学業が優先」という両親の考えに同意したからだ。彼女ははじめの2回の受験を見送り、勉強に専念した。

「格好良いエピソードに聞こえますよね? それが、学校の成績はちっともよくならなかったんです」

 笑っては失礼だと思ったが、当の本人が大笑いしているので、すっかりつられてしまった。

 このままでは宝塚への夢と勉強のどちらも中途半端になると焦った彼女は学力アップをすっぱりと諦め、両親との話し合いの結果、宝塚受験に踏み切った。

 ただひとつの夢に向かって瞳を輝かせた少女の熱意は、未来への扉を開ける力となったのだろう。初めての受験で合格を果たした中原さんは、タカラジェンヌへの一歩を踏み出した。

 予科生は、1学年上の本科生から日頃の態度や礼儀作法、お掃除の仕方についてなど、あらゆる点で徹底的な指導を受ける。生まれて初めての環境に驚いたが、自分らしさは隠せなかった。

「私の長所でもあり、短所でもあるんです。超が付くほど楽天的な性格」

 どん底まで落ち込んでも、一晩寝たらすっかり忘れる。中原さんなりに心から反省するのだが、翌朝には元気いっぱいで登校した。しかしそれは本科生から見ると、「厳しく注意をしても全く反省しない生徒」だった。

「真剣に叱った次の日、私が何事もなかったかのような表情で現れるんです。『なんで、そんな平然としてるの……』って、さらに叱られてました」

 自己分析によると「何をやっても見つかって、叱られるタイプ」。失敗のたびにしょんぼりと落ち込み反省するのにそれがちっとも伝わらず、気がつけば同期生の中で上位3人に入るほど叱られやすい人になってしまった。

 当時の彼女が最も悩んでいたのは、まさに「反省の気持ちが、他者に伝わらない」ことだった。「どんなに真剣に考えていても、その思いを人に伝わるように表現できなければ意味がない」と思い知らされたという。

「それでも、わざとらしく神妙な顔をするのも違う気がして……。それは上級生になっても、結構悩んでました」

 舞台は、1人がミスをすると全体に迷惑がかかる仕事場だ。音楽学校では芸事で競い合うに、「自分さえ失敗しなければ良い」という考えを改め、全員で足並みを揃えることの大切さを学ぶ。これは「個性を尊重すること」と同じくらい、舞台では必要とされることなのだ。

 そんな状況で失敗を繰り返したが、少しも責めずに助けてくれた同期生に、今でも深く感謝していると語る。なにしろ、どれだけ叱られても彼女は毎日嬉しかった。

「もうすぐ私は、タカラジェンヌになれるんだ」

 落ち込むことはあったものの少しもへこたれることなく予科生生活を終えると、本格的に芸事に集中する本科生の日々を過ごした。「とりあえず目立ちたい」と意気込んだ卒業試験では、それまでの順位を大幅に上回り、48人中8番目という好成績で入団を果たすことになる。

月組でも試練は続く

 2006年の宙組公演「NEVER SAY GOODBYE」で初舞台を踏んだ中原さんは、月組に配属された。最下級生として頑張り始めた中原さんだが、まだまだ苦労は尽きなかった。

「劇団生になっても、私はやっぱり失敗ばかりで、もうはちゃめちゃに叱られてたんです」

 音楽学校とは違い、たとえ1年目でも舞台に立つ以上、自分の役割を完璧に果たさなくてはならない。覚えること、やるべきことに追われ、努力の甲斐なくミスを連発してしまうこともあった。というのは、中原さんはいつも、男役として舞台に立てる喜びが表情に出過ぎていたようだ。下級生がみんな真剣な表情をしているのに、彼女だけはにこにこ顔。緊張感が足りないとみなされ、「態度が悪い」と叱られてしまうこともあった。落ち込んでばかりのそんな毎日が変化したきっかけは入団から2年目、バウホール公演「ホフマン物語」に出演したことだった。

 各組には70〜80人の生徒がいるが、バウホール公演などの場合は30人ほどの出演者に絞られる。そうすると、大勢で行動している時には分からなかったそれぞれの人となりを深く知ることができ、信頼関係がより強まることがある。

「生意気で反省しない子」だと思われていた中原さんだが、公演の下級生として懸命に働き、楽しそうにお稽古に熱中する姿から、その素直な人柄が理解されたのだろう。だんだんと、上級生からも親しく声を掛けられるようになった。また中原さんも、緊張を解いて上級生と会話をすると、「叱られるのは嫌われているからではなく、成長させるためなんだ」と分かったという。「気がつくの、遅すぎですよね」と照れながら当時を振り返ってくれたが、それからは上級生から芸事について教えてもらうことが増え、舞台にさらなるやりがいを感じるようにった。

 この公演を機に月組に馴染んでいく彼女を一番近くで支えてくれたのは、音楽学校時代と同様、やはり同期生だった。仲が良いと評判だった月組の92期生は、中原さんにとって特別な仲間だ。

2023.05.27(土)
文=早花まこ