この記事の連載

 「宝塚を卒業した私を待っているのは、どんな現実なのだろう」——自身も元タカラジェンヌである早花(さはな)まこさんが、卒業生たちに聞いた“宝塚のその後”の人生を綴る。今回お話を伺ったのは星組・雪組で活躍後2015年に宝塚を卒業した夢乃聖夏さん。


新人公演で抜擢された、アンドレの失敗

今回お話を伺ったのは星組・雪組で活躍後2015年に宝塚を卒業した夢乃聖夏さん。©︎新潮社
今回お話を伺ったのは星組・雪組で活躍後2015年に宝塚を卒業した夢乃聖夏さん。©︎新潮社

 宝塚歌劇の新人公演は、若い生徒にとって挑戦の場だ。研7までの生徒のみで上演する、宝塚大劇場と東京宝塚劇場でそれぞれ1回ずつしかない公演。新人公演での成功体験は大きな自信になるのだが、彼女は顔をしかめて思い出す。

「舞台に負けた。お客様に呑まれてしまった……そう思ったよね」

 研5の時、「ベルサイユのばら」の新人公演で、メインキャストのアンドレ役に抜擢された。

 台詞や少し目立つ役は経験していたが、普段はほとんど、ダンスでは群舞の一員、お芝居も大勢で演じていた彼女にとって、大劇場にたった1人で立つなど初めての経験。見せ場のソロナンバー「白ばらのひと」で、銀橋に登場した時だった。目が眩むほど明るいスポットライトと、客席からの盛大な拍手が浴びせられ、一瞬、立ちすくんでしまった。

「登場した途端のすごい拍手とライトに、『ハッ』って息を呑んじゃって。怖かった……」

 それは新人スターへのあたたかい応援の拍手だったが、当時の彼女には受け止め切れないほどの威力だった。一気に動揺して平常心を失い、「とんでもない歌を歌ってしまった」と振り返る。その後のお芝居もショックを引きずったまま、お稽古の成果が思うように出せず、成功とは言い難い新人公演だったという。

 しかし、この経験こそが、彼女を大きく成長させてくれた。少しでも出番の多い役を与えられると、アンドレ役での「忘れられない悔しさ」を思い出した。

「あのライトと拍手の圧力を、跳ね返せるようにならなきゃいかん! そう思って、お稽古するようになったの」

 夢乃聖夏さん。佐賀県多久市出身の彼女は、「ともみん」、「ゆめちゃん」と呼ばれ、抜群のスタイルとダイナミックな表現力で人気を博した。星組から雪組へ組替えとなった後、2015年に宝塚を卒業した。現在は福岡市で暮らし、3人の子どもたちを育てている。

 「今はもう、育児に追われてる疲れたお母ちゃんだよ〜」とため息をついていた夢乃さんだが、福岡市内の広い公園に現れたのは、朗らかな笑顔が弾ける格好良い女性だった。

「子どものお世話をしていると視線はずっと下向きだから、猫背になっちゃった。1人で前を見て歩くっていうことは、もうほとんどないよ」

 その言葉を、「お母さんだなあ」と感慨深く聞いた。

記念受験のつもりが

 夢乃さんが生まれ育った多久市は、山々に囲まれた、自然豊かでのんびりとした地域だ。県庁所在地である佐賀市までは、当時は電車で40分ほどかかった。祖父母、両親、姉2人と兄の、とても仲良しの8人家族。大自然と大家族のなかでのびのび育った夢乃さんは、ソフトボール部と駅伝の活動と高校の受験勉強に一生懸命取り組む、充実した中学校生活を送っていた。

 とても仲良しの8人家族。大自然と大家族のなかでのびのび育った夢乃さんは、ソフトボール部と駅伝の活動と高校の受験勉強に一生懸命取り組む、充実した中学校生活を送っていた。

 彼女が初めて宝塚歌劇に出会ったのは、小学校6年生の終わり頃だった。関西に住んでいた親戚に誘われて、月組公演「CAN-CAN」「マンハッタン不夜城―王様の休日―」を観劇した。

 女性が男性の役を演じるなんて珍しいなと驚いたものの、興味を惹かれることはなかったそうだ。

 その後、親戚の人に「ともみちゃんは背が高いから、宝塚を受けてみたら」と勧められた。同級生のなかでも身長が高いことがコンプレックスだった夢乃さんが、初めて宝塚に心を動かされた瞬間だった。

「なんだか面白いかも、というのが受験の動機。完全に、記念受験でした」

 宝塚受験のために何年もかけて準備する人が少なくないなか、夢乃さんはというと、中学校1年生から週に一度、クラシックバレエを習い始めた。1回1時間のレッスン、つまり1カ月に4時間の練習だ。他の受験生よりバレエのレッスンが足りなかった自覚のある私でさえ、1週間に5時間ほど練習していたことを思えば、宝塚合格にはほど遠いように感じる練習量だ。

 中学校の授業が終わると部活に出て、そこからようやくバレエ教室に向かう。母が持たせてくれるのは、茹でたとうもろこし。それにかぶりつき、丸々1本を食べながらバスに1時間ほど揺られる。

「あんまり熱心な生徒じゃなかったから、バレエの先生に名前を覚えてもらえなかったの」

 ソフトボール部に入っていたためショートカットだった彼女は、きっちりしたおだんごヘアができるように髪の毛を伸ばし始めた。

「宝塚は一次試験くらい受かるだろうって、なんとなく思ってたんだよ。倍率が高いとか、試験会場の雰囲気とか、何も知らなかったからね」

 当時の自分を振り返る彼女の言葉は、「イモ具合が、凄かった!!」。

 いよいよ試験の当日、受験生たちはやる気が漲り、髪の毛を一本の乱れもなくシニヨンにまとめていた。対して夢乃さんは中途半端な長さの髪の毛を、ヘアピンをばってんにして頭一面に留め、他の受験生たちから浮き立っていた。

 バレエの試験では振付についていけず、みんなと反対方向にジャンプしたかと思えば、回転するステップで目が回ってしまった。呆れた顔で微笑んだ審査員の先生に微笑み返して、「ああ、不合格だ」と思ったという。それでも結果はまさかの合格、二次試験に進むことができた。

 二次試験当日、試験会場まで乗った電車で乗り物酔いをしてしまった夢乃さん。急行や特急といった速い電車に乗ったことがなかったので、

「すごいスピードで、外の看板がびゅんびゅん……。人も多いし、気持ちが悪くなっちゃった」

 朝から疲れ切って、緊張もせずに試験が終了した。

 当時は、三次試験の面接のみ私服着用だった。面接までに受験生の大半が脱落してしまうのだが、そんなことなど知らない夢乃さんは、受験の募集要項にあった通り私服の用意をしていた。いつもお姉さんのおさがりを着ていた彼女は、宝塚の面接のためであろうと、新しい服は買ってもらえなかった。母が仕方なく持たせてくれたのは、姉が大学の入学式で着たグレーのツーピースだった。

「その服をスーツケースに入れて、新聞紙をかぶせてさ。単純に、お姉ちゃんの服を着られるのが嬉しかったんだよね」

 他の受験生が清楚で可愛らしい「勝負ワンピース」を着ている中、ぶかぶかのジャケットと長いプリーツスカートを着た夢乃さんは、意気揚々と面接を受けた。

 軽やかに階段を駆け上がるように、夢乃さんは宝塚音楽学校への合格を果たした。宝塚に合格できるとは全く思わず、受験中はホテルに高校の春休みの宿題を持って来ていたくらいだったので、「人生が、これ以上ないってくらい、大きく変わりました」。

 合格発表の直後には音楽学校の入学説明を受け、授業に必要な物を購入しなくてはいけなかった。他の進路を選ぶ余地を与えない、宝塚の強気な姿勢には圧倒されるが、そのために受験生たちには親や受験スクールの先生が付き添っている。夢乃さんの母も付いて来てくれたのだが「合格するはずはない」と、一次試験が終わると京都観光をして多久市へ戻ってしまっていた。1人で合格発表を見に行った夢乃さんが、途方に暮れたのは言うまでもない。公衆電話で山のように10円玉を積み上げて電話をかけ、母に合格を伝えたという。

 夢乃さんの宝塚合格の知らせにびっくり仰天したのは、両親だけではなかった。佐賀県から宝塚の合格者が出たのは、実に15年振りだったのだ。バレエ教室の先生が大慌てで新聞社に連絡して、「あれよあれよという間に、佐賀新聞の記事になっちゃった」。

 この記事を見て、「私も宝塚を目指そう!」と決意したのが、同じ佐賀県出身で後に宙組トップスターとなる朝夏まなとさんだという。「私の記事のおかげでトップスターが生まれたって、凄くない!?」と、夢乃さんはにやりと笑う。

涙の日々が始まった

 高校進学から一転、しかも宝塚合格から1週間後には親元を離れての寮生活を送ることになり、迷いや不安はなかったのだろうか。

「いや、もう不安しかないよ。迷いはないけど、不安だらけさ」

 宝塚音楽学校では芸事の鍛錬だけではなく、礼儀作法や団体行動を厳しく叩き込まれることで有名だ。当時、予科生は、本科生から徹底した指導を受けた。やるべきことや覚えることに追われ、携帯電話を持たずに宝塚へやって来た夢乃さんは、家に連絡することもできなかった。

 ようやく母へ電話をかけたのは、寮生活が始まって1週間ほど経った夜中の3時。話し声が漏れると本科生に厳しく叱責されるため、布団を被って押し入れに籠り、同期生に借りた携帯電話を握り締めた。驚いて電話に出た母に頼んだのは、

「黒いフェルト、送って!」

 寮の廊下で足音を立てないよう、スリッパの裏に黒いフェルトを貼る決まりがあったのだ。

 自由に買い物に出かけられない状況で、フェルト1枚すら佐賀県の実家から送ってもらうしかなかった。2日後に速達で送られて来た小包を開けると、夢乃さんが頼んだ黒いフェルトが入っていたが、「これ、おばあちゃんのお習字の下敷きやん」。

 深夜3時の電話とその内容に、娘の置かれた状況を察したのだろう。数日後に実家から届いたのは、真新しい携帯電話だった。

 夢乃さんの心は、「とんでもない世界に来てしまった」という思いでいっぱいだったが、両親や同期生に弱音を吐く余裕もなかったという。

 学校から寮への帰り道、小蝿がたくさん飛んでいる宝塚大橋を歩きながら涙ぐんだ。空に飛行機を見るたび、胸がうずいたが、故郷に逃げ帰る選択肢はなかった。冬になるとオリオン座が浮かび、綺麗な星を眺める一瞬だけ心が安らいだことは忘れられない。今でも毎年オリオン座を見ると、あの頃の切ない気持ちが蘇るそうだ。

 本科生になると、ようやく芸事に集中する時間ができた。ここで夢乃さんは、経験年数が少ないバレエの壁にぶつかった。バレエの授業は、生徒の技術のレベル別にAからDまでの「課外」に分けられていて、夢乃さんはD課外……バレエの初心者が基礎を習うクラスだった。

 大変厳しい先生の集中指導を受けた彼女は、バレエのステップどころか、寒い窓際でひたすら腹筋のトレーニングをさせられていた。少しでもへこたれると「そんなんだから、あんたは万年D課外よ!」と叱られ、悔しさに歯軋りする日々。なんとか先生を見返したい一心で、夢乃さんは独自の練習法を編み出した。生徒全員が一緒に受けるバレエの授業で、自ら願い出てA課外生の間に入れてもらった。バレエの上手な人を穴が開くほど見つめて、真似をしたのだ。

「レッスン経験は違っても、同じ授業を受けるんだから、私だって同じ分だけ受け取れるはず。そう思ったの」

 「くそー、見とけよ!」と先生への憎まれ口を胸に、休日だけではなく昼休みも返上でバレエの練習を続けた結果、卒業する頃には見事に成績が上がっていた。「これで努力を認めてくれるはず」と思ったが、先生からのお言葉は「私のおかげよ!」。またしても悔しさがこみ上げたが、バレエの授業で根性が身に付き、上手な人から学べることを知ったのだ。「確かに、先生のおかげとも言えるな」と、感謝の気持ちを抱いたという。悔しさが原動力になってバレエが上達した経験は、後の彼女を支える学びとなった。

 2001年、87期生として入団し、宙組公演「ベルサイユのばら 2001」で初舞台を踏んだ夢乃さんは、星組に配属された。

 受験当時「おイモみたいだった」と自らを語る彼女だが、「合格の理由かもしれない」と思うことがひとつだけあるという。

 公演前の衣装の採寸で、多くの生徒の衣装合わせをしているお衣装部さんに、「あんた、手も足もえらい長いなあ」と度々言われた。この時、それまで少しも自覚していなかった自分のスタイルについて、意識するようになったそうだ。そのすらりとした手足を武器に、夢乃さんは若手男役の中で頭角を現していく。

2023.05.27(土)
文=早花まこ