「本の小説」と副題にあるのを頭に読み始めると面食らうかもしれない。ここには恋愛も殺人もない。膨大な固有名詞が次々と目の前に現れるという意味の「本の小説」だ。そして、そこから受ける知的興奮に謎解きが加わるという点ではミステリに近いか。
むしろ帯に書かれた「本は、水と呼吸のような、生きるエネルギー。言葉と物語からあふれる力を掬いとり、その輝きを伝える」という惹句がうまい要約かもしれない。それにしても著者が導き出す「言葉と物語からあふれる力」は強大で魅惑に満ちている。それがすべて「糸」「湯」「ゴ」「水」など一語のタイトルでくくられる。たとえば最初の「手」。向田邦子と村上春樹。どこにも接点はなさそうだが「品川巻の海苔が好きな猫」で糸がつながる。かと思えば吉川幸次郎の歌舞伎随筆から、読者は小林秀雄の恩師退官の日のエピソードに連れ去られていくのだ。これは快感と呼ぶしかない読書体験だ。
続く「〇(まる)」でも、瀬戸川猛資、山口雅也、深町眞理子という常套のリレーが、突如、橋本治から郷ひろみ、小林信彦から宮城まり子と乱れ始める。いや乱れているわけではない。著者の目にはちゃんと「この世の何かと何かを繋ぐ、不思議な糸」が見えていて、それを手品のごとく鮮やかな手つきで観客に見せているだけなのだ。
「湯」では芥川龍之介の「風呂に入るのは簡単なのに、それを文章で生き生きと書くのは難しい」という文章の典拠を求めて、田端文士村記念館の研究員を巻き込んでの捜索活動が報告されている。
そこに博覧強記と無類の本好きという著者のバックボーンがあることは疑いない。プラス、本という形を成したテキストへの偏愛がある。たとえば芥川の「湯」に関する文章を最初に読んだのは、新潮文庫『山鴫・藪の中』だと現物が示され、そこに、中学時代に読んだ若き北村薫の風景がよみがえる。あるいは泉鏡花「櫛巻」を読んだのは母親の実家にあった春陽堂の『明治大正文学全集』というふうに。ネットや電子書籍で得た単一のテキストからは、このような濃密な記憶や風景は獲得しがたいだろう。文学とは「本」のことだと吉田健一が言ったのをここで思い出す。
2023.02.28(火)
文=岡崎武志