見ること以上に見る
冒頭で私は、1枚の絵画を前に、「色は?」「形は?」「筆致は?」と冷静にまじまじと見ようとする自分に違和感を感じ、疑問を抱きました――鑑賞とは、目を凝らして対象を見ることなのか……? と。
岡本太郎の、芸術に対する考え方を鑑みると、彼の作品は、全人間として猛烈に生きようとした岡本太郎の「分身」であるように私には感じられました。それを、物言わぬ「石ころ」を扱うかのようにまじまじと観察したり、まるで医者が患者を診るときのように、冷静に見ようとすることは、なにか違う気がしたのです。
そこで想像してみました。もしも、私の目の前に岡本太郎という人間がいたとしたら、私はどのようにして「見る」だろうかと。
岡本太郎を頭の上から足の先まで舐めるように見て、「肌の色」「耳の形」「ほくろの数」などの視覚情報を集めるようなことは、決してしないはずです。
それに、いくらそのように目を凝らして見ても、岡本太郎という人間を「見た」ことにならないのではないかと思います。
岡本太郎が目の前にいたら、きっと面と向かって目を見ることすらできないかもしれません。それでも、その場で対面して、一言二言、言葉を交わしただけで「思っていたより柔らかい感じ」などと、その人が醸し出す空気を感じることができると思います。
その後、岡本太郎が「カフェでも行きましょうか」と、言ったとしましょう。カフェでコーヒーを片手に、岡本太郎の話に耳を傾けたり、私も自分の話をしたりする。そのすべてによって、だんだんと岡本太郎という人間が「見えて」くるはずです。
そうして私の中で像を結ぶ岡本太郎は、彼自身が思っているものとは違うかもしれません。また、岡本太郎の幼少期をよく知る人が語るものとも違うかもしれません。しかし、それで良いと思うのです。
岡本太郎に大きな影響を与えたというパブロ・ピカソの言葉に、次のものがあります。
「リアリティーは君がどうものを見るかの中にある」。
鑑賞とは、目を凝らしてまじまじと見ることだけではないようです。たとえ、「何が描かれてるか」「どんな色か」などと注意深く観察していなかったとしても、展示室で作品に対面して、作品のある空間で時を過ごしたり、作品が存在する場の空気を感じたりすることでも「見る」ことは十分にできると思うのです。
そして、作品をきっかけに感じたことや、自分の中に芽生えた想いについて、少し考えを巡らせてみる。それは、作品とはほとんど関係ないことであっても、もともと自分の中に眠っていたようなことであっても良いのです。そうして鑑賞することで、徐々に作品が自分だけのものになってゆきます。
最後に、岡本太郎は「藝術は呪術である」という言葉も残しています。呪術とは一般的に、目で見たり言葉で全て説明したりできないような、精神世界の行為を指します。
もしかしたら岡本太郎は自身の作品に対し、目で見る「視覚芸術」としての側面だけではなく、体や心で感じるようなあり方を求めていたのかもしれません。
展覧会 岡本太郎
会場 東京都美術館
所在地 東京都台東区上野公園8-36
会期 〜2022年12月28日
開室時間 9:30~17:30 ※毎週金曜は20:00まで ※入室は閉室の30分前まで
休室日 毎週月曜日
観覧料 一般 1,900円、大学生・専門学校生 1,300円、65歳以上 1,400円
問い合わせ 03-3823-6921
https://taro2022.jp/
2022.11.21(月)
文=末永幸歩
撮影=末永裕樹