ジャニーさんがぜんぶ道を敷いてくれた
――錦織さんの舞台といえば、作・演出のつかこうへいさんとの出会いになった、1999年の『蒲田行進曲』がとても印象深いです。錦織さんを舞台の世界に導いたジャニー喜多川さん、そしてつかこうへいさんは、どんな存在でしたか。
錦織 僕の思い過ごしかもしれないけれど、その2人は僕のことをものすごく信用してくれていました。僕もそうです。僕にとって、つかさんは一番信用できる演出家だったんです。どんな作品でも、役者のせいには絶対にしない人で、カッコいいなと思いました。
僕もつかさんの舞台を何回も観に行き、その後に一緒に飲みました。そんなときつかさんが、うまくいかないことを出演している俳優さんのせいにしたり、悪口を言ったりするのを聞いたことがない。
――その愛や信用は、どこから生まれたんでしょうか。
錦織 そんなカッコいいもんじゃなく、僕とつかさんの間の愛とか信用とかは、飲み屋で生まれただけですよ。飲むことが大好きな人だから。それほどバンカラでもないんですけど、本音でぶつかりあった。
つかさんはよく、「俺の芝居はいいだろ? 俺の芝居にはお前、ダメ出しってもんがないからよ」って言うんです。確かに稽古場では言わないけど、飲みに行って聞くお話はぜんぶ僕の芝居へのダメ出しですから(笑)。そこで会話はしちゃいけないんですよ。ただ聞くだけです(笑)。
――一方、ジャニーさんからの信用、というのは?
錦織 僕が演出家としてクレジットされるきっかけを作ってくれました。お芝居を作ってみたいという気持ちはありましたけど、立候補していなかった僕に、ジャニーさんがぜんぶ道を敷いてくれました。1986年から青山劇場で23年にわたって公演した『PLAYZONE』もそうでしたし、東宝の舞台の演出も、ジャニーさんが僕を東宝に薦めてくれましたから。
それまでも、僕が演出や脚本を書いたりしてクレジットされていたことはあったんですけど、周りは、どうせ錦織は作ってないだろって態度だったんですよ!「少年隊」という名前に表舞台の印象が強くて、物を作る人のイメージがあまりなかったんですね。
2022.10.04(火)
文=石津文子