杏の人生から、危機が完全に去ったとは言い難い。東出昌大との離婚が成立した杏は、3人の子供をシングルマザーとして育てていく状況にある。コロナ禍以降のヨーロッパではアジア系市民にしばしば険しい敵意の目が向けられる、と報道される。移民排斥派のマリーヌ・ルペン大統領誕生をかろうじて決選投票で防いだ、そのフランスに杏は子供たちを連れ移住することを決めた。

「健康とか事故とかにあわないようにだけ気をつけてくれれば、どこにいてもたぶんこの人は大丈夫でしょう」

 動画の最後でそう語る渡辺謙は、多くのことを独力で成し遂げてきた娘の強靭さを信頼し、畏怖しているようにも見える。1日1回は安否確認のLINEをくれ、とねだる渡辺謙に「多いよ」と渋い顔をする一方で「一応心配してるんだってビックリした」とチクリと刺すように応える杏は、思春期に別れ、遠くから見てきた父親を許し、再び親子にもどろうとしているかのようだ。

 

杏「(父を見て)遅いってことはないなと」

「(渡辺謙が)40越えても、ハリウッドとか新しい世界に行ったりミュージカルやったりしてたからさ、遅いってことはないなと、見てたから思う」と杏は語る。

 9月4日、同じチャンネルで渡辺謙と杏がギターの弾き語りで荒井由実の「卒業写真」をデュエットしている。「あなたも1個ステージを卒業して旅立っていくんだなという惜別の思いをこめて歌ってみようかと思った」と語る渡辺謙のリクエストによるもので、おそらくは先日の動画と同日に撮影されていたものなのだろう。

 歌手としてのキャリアもある杏のみごとなボーカルにくらべて、渡辺謙の歌はいささかほほえましい、お父さんのカラオケといった雰囲気もある。しかし、まったく趣の違う2人の声が響き合う空間は心地よいものだった。

「行ってらっしゃい」と渡辺謙が曲の最後に言葉をかけると、杏は「遠くで叱ってもいい?」とからかうように笑った。「人混みに流されて変わってゆく私をあなたは時々遠くで叱って」という有名な歌詞は、本来は父が娘に贈るような歌ではない。しかしそれは、10代のころから娘を近くで支えることができなかった父親から贈られた、強くタフな娘への賛歌のようにも見えた。

2022.09.20(火)
文=CDB