鬱屈した欲望のはけ口となった聖セバスチャン

 当時の聖職者は、マキアヴェリの『君主論』のモデルともなったチェーザレ・ボルジアが一時期、枢機卿であったことも一例だが、貴族の子弟が多く、すべてが男好きというわけでもなかった。とはいえ、一度聖職者になってしまうと、公には妻帯できなくなる。ローマ教皇の地位にまでのぼりつめたチェーザレの父ロドリーゴ(教皇としてはアレクサンデルVI世)のように、聖職者でありながら公然と愛人を出入りさせたりすると、その子供たちはいかに高い地位の役職に就こうとも「私生児」と陰口を叩かれ、命まで狙われる羽目になる。それがイヤならば、基本的には男たちだけの世界に暮らすことになる。

 そのうち、もともとは女好きだったけれど「男でもいいか」、もしくは、「どっちでもいいや」というハナシになる。その結果、選択肢がない聖職者の世界では「裸の女の絵」ではなく、「限りなく女のような」表情を見せる妖艶な美青年が苦悶する姿で、殉教聖人が描かれることになったのだろう。

 商売上手な芸術家からは「今度のご注文ですが、聖セバスチャンなんてどうでしょう? 殉教者としては申し分ないですよね。もともとはけっこうな年配のローマの兵士ですが、ヒゲは無しで、若い男性にしちゃいましょうか?」といった提案がなされ、ただ単に「若く美しい裸の男性」を描くのではなく、木に縛られ、何本もの矢につらぬかれて血を流し、涙をたたえた大きな瞳で天を振り仰いでいる構図が決められていった……と私は確信している。

岩渕潤子

岩渕潤子 (いわぶち じゅんこ)
AGROSPACIA取締役・編集長、青山学院大学総合文化政策学部・客員教授。
著書に『ニューヨーク午前0時 美術館は眠らない』、『億万長者の贈り物』、『美術館で愛を語る』ほか。
twitterアカウントは@tawarayasotatsu

Column

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2013.06.15(土)