アナキストで人類学者のデヴィッド・グレーバーが人間にとって重要なのは「合理性ではなく穏当さ」だと語っているのは傾聴に値します。互いにとってベスト・ソリューションではないけど、good enoughで「まあ受け入れられるよね」という方法を見つけてゆく。違う考え方や信条の人々がぶつかったとき、すべての人が100%望むものを手に入れる解決法は無理だけど、そこそこみんなが納得できる方法を話し合って見つけるわけです。

 ムスリムの親御さんたちが反対するからといって、小学校でLGBTQ問題は扱わないわけにはいかないと教員たちは考える。でも気にする人たちがいたときその教え方の工夫が必要かもしれないし、ムスリムの人たちもまた子供は学校に行かせて、話し合って解決策を探る――。エンパシーは異文化問題をミラクルに解決する万能薬ではなく、そういうお互いにgood enoughな穏当さを引き出すための知的作業なのです。異なる伝統や価値観を持った多種多様な人々が、エンパシーを使って話し合い、そのとき、そのときで折り合って解決法を見つけていくことを、グレーバーは「民主主義の実践」とも言っています。

 

同質性を強要する社会が日本人を縛り付けている

――自民党のLGBT法案をめぐる議論では、「生物学上、種の保存に背く」という発言が出てきて紛糾するなど、日本では異質な他者への拒否反応が先に立ってしまいがちです。

ブレイディ 多様性が議論にのぼるとき、日本では「平等・公平である」(equality)ことと「同じである」(sameness)ことが混同されがちです。人種やジェンダーや性的指向の違いによって、社会的にハンデを背負わされたり差別的な扱いをされないようにするのが「公平」です。

 多様性は、好むと好まざるとに関わらず既にそこにあるものですから、その前提を受け入れて、公平に扱いましょうねというのがequality。でも、日本ではまるで学校のルールのように「足並みを揃えて同じように振る舞わせ、同質な人間にする」のが公平性だと思っている。髪の色を同じにしろ、スカートの長さを同じにしろ、例外扱いは許さない――そんな固定観念がLGBT問題の根っこにも巣食っているのではないでしょうか。

2021.07.08(木)
文=ブレイディみかこ