贅を尽くした洋館が辿る数奇な運命
京都の貧しい煙草商の家に生まれた吉兵衛は、当時まだ政府の専売制になっていなかった煙草の製造に乗り出し、「ハイカラの村井」として大成功を収めた。同業者たちとの激しい競争をリードすることができたのは、自ら渡米して煙草の葉を直輸入したり、いち早く欧米の最新技術を導入したりといった技術革新と、魅力的なパッケージデザイン、斬新な広告宣伝が効果を発揮したためだった。
1904年に煙草専売法が施行されると、民間の煙草製造は終わりを告げる。政府に煙草事業を売却した吉兵衛は莫大な補償金を手に入れ、村井銀行を設立。製糸事業などに乗り出して財閥を形成していく。
当時、村井吉兵衛の別荘として建設されたのが長楽館である。1904年に建築が始まり、途中、日露戦争で工事中断。五年の歳月をかけて完成した、贅を尽くした洋館は、時の政治家たちや海外からの来賓を迎える迎賓館としての役割も果たすことになる。
長楽館と命名したのは、竣工直後にこの館に宿泊した伊藤博文だった。井上馨、大隈重信、山縣有朋といった政治家たち、皇族たち、英国皇太子やアメリカの財閥ロックフェラーも長楽館を訪れている。映画ならここで前編が終了し、スクリーンが暗転するだろう。一九二六年に吉兵衛が死去。その翌年には昭和金融恐慌が発生し、村井財閥はあえなく消滅してしまう。
長楽館は売却されて人手に渡り、第二次世界大戦後は一時期、進駐軍に接収されていたこともある。そして一九五四年、土地と建物を購入した土手富三氏が新たな主となる。彼は荒れ果てていた長楽館に惚れ込み、五年もの時間をかけて所有者から譲り受けたのだ。
2021.06.08(火)
文・撮影=川口葉子