半年に一度の発表のたびに大きく報道され、お祭り騒ぎになる芥川賞・直木賞。その成り立ちから知られざるエピソードや文学史に残る名言に徹底的に迫ります! 今回は、芥川賞・直木賞の成り立ちを紹介。
芥川賞・直木賞は男の友情から始まった!
日本一有名な文学賞、芥川賞と直木賞は、作家であり、文藝春秋社の社長、菊池寛の発案から始まった。
昭和9年2月に親友の作家、直木三十五を亡くした菊池寛は、その年の『文藝春秋』4月号に「直木を紀念するために、社で直木賞金というようなものを制定し、大衆文芸の新進作家に贈ろうかと思っている。それと同時に(すでに亡くなっていたこれまた親友、芥川龍之介を紀念し)芥川賞金というものを制定し、純文芸の新進作家に贈ろうかと思っている」と書き、芥川賞・直木賞の構想を初めて発表した(この号は定価を10銭上げ、直木の香典に充てた)。
両賞の創設が正式に宣言されたのは、翌昭和10年1月号の『文藝春秋』にて。そこには、「六ケ月毎に審査を行ふ」「適當なるものなき時は授賞を行はず」「芥川龍之介賞受賞者には『文藝春秋』の誌面を提供し発表」「直木三十五賞受賞者には『オール讀物』の誌面を提供し発表」と明記され、その規定は現在もほぼ変わらず。「正賞は懐中時計で副賞が賞金」というのも今と同じだ。
当初の選考委員は、芥川、直木、さらに文藝春秋社と交流のある作家が担当。その結果、芥川賞は佐藤春夫、室生犀星、川端康成ら、直木賞は吉川英治、大佛次郎ら、両賞兼任で菊池や久米正雄らが名を連ねるという豪華さとなった。
そして第1回芥川賞候補となり、受賞を渇望したのが、太宰治。が、受賞はならず、結果、太宰が川端康成宛に激しい抗議文を発表するという、文壇史に残るエピソードとともに、両賞はスタートしたのである。
その後、第7回からは「文藝春秋社がなくなっても、両賞が永久に続けられるように」と考えた菊池寛が、「財団法人日本文学振興会」を創設し、主催を移行。以来現在まで、両賞は同振興会により運営されている。
では、対象となる作品基準をみてみよう。両賞ともに受賞作は、12月から翌年5月までを上期、6月より11月までを下期として、その間に発表されたものの中から選ばれる。現在、芥川賞は刊行されている雑誌、同人誌に掲載された作品から決定。直木賞は単行本から選考する。
芥川賞は「無名あるいは新人作家の書いた短編・中編」が対象となっており、とくに初期は、「新人作家と言えるかどうか」「原稿枚数が多すぎはしないか」という点が、選考委員の間で議論されることも多かった。しかし、デビューからの年数にはっきりとした規定はなく、枚数に関しても厳密な規定もない。
一方、直木賞は「無名・新進・中堅作家が書いた短編および長編の大衆文芸作品」が対象だが、純文学(芥川賞)と大衆文芸(直木賞)の境界が曖昧になることもしばしば。檀一雄、柴田錬三郎、車谷長吉、山田詠美、角田光代らのように、かつて芥川賞の候補になった作家が後に直木賞を受賞するパターンや、松本清張や田辺聖子のように、芥川賞作家が直木賞選考委員になることもある。この固定観念にとらわれない柔軟さが両賞の魅力でもあり、長く続いている理由のひとつかもしれない。
とはいえ、賞の創立当初から菊池寛の中には「芥川賞は作品に、直木賞は手腕に」という確たる考えがあったと言われており、「直木賞は、その後も書き続ける実力のある人に授賞する」という方針が、今も貫かれているようだ。
2013.05.04(土)
text:Yoshiko Usui
photographs:Mami Yamada / Bungeishunju