“映画が量産されすぎた” 日本映画に抱く危機感
――普段は切り替えができる方なのですか?
切り替えようと思えば、切り替えられるんです。強引に蓋をして前を向くというそのこと自体は、意外と簡単なような気がします。
ポジティブに生きよう! ネガティブは悪だ! というようなスローガンが街に溢れていますが、あれはある意味、人の複雑な感情や遺伝子の作りを馬鹿にしているように思ってしまいます。
なんというか……それはこの映画の訴えかけているテーマのひとつに関連するとも言えるのですが、人間というのは、何でも作り出すことはすごく得意なんだと思うんです。
本当にこれまでたくさんのものを創造してきた。その英知によって今僕は暮らしています。
でもその先の、そのまた先の悪い方の影響や、未来の形を考えることには、意外と向いていない。
例えば映画を1本作る、それが社会にどう影響を与えて、人々の記憶にどのように留まり、どのように変化していくのか。
はっきり言って正確には僕にも分かりません。そんなこと気にしていたら芸術なんか出来ないとすら思います。
それでもどう見積もっても、動機が曖昧であったり、不純であったりするものを、資本主義によって量産し過ぎた。そうじゃなくとも映画が量産され過ぎた。
そのことによって僕たちは、何か特別に大事なものを失ったはずなんです。愛情なのかもしれませんし、手塩にかけることかもしれません、はたまた心なのかもしれません。
少し乱暴な言いかたをすると、映画が雑になった。映画をみんなで軽くした。映画を利用し過ぎた。
戦後の高度経済成長期なら、勢いで量産することで、誰かの心を救えていたのかもしれません。でも今、1,800円、1,900円という世界でも類をみない破格の値段をとって、さらに映画館に行こう! と財布を開けてもらうことばかりに目を向けている。
映画のこと、日本映画のこれからのこと、ひいては社会のこと、未来のことを本気で考えれば、もっと考えていかなければいけないことは、業界の内部、自分自身の内部にあるはずなんだと思うんです。
産業を回すことと、映画を大切にすること、アップで見れば対極のようですが、引きで見れば案外同じことなんではないかと思います。
そのための変化と、時間と苦労という犠牲は伴うはずですが。千松さんじゃないですけど、自分が向き合い愛情をかけられるだけのものと数とを考えると、やっぱり切り替えが下手でいたいなと思います。少なくともこれまでの自分自身のやり方よりは。
『宮本から君へ』に関して言うと、あれだけ時間をかけ、たくさんのものを犠牲にして、その期間、何も生み出せないストレスや、収入がゼロであったとしても、「自分が信じたことの行く末を見守りたい、その上で先に進みたい。」というのがあったんだと思います。そういう作品に出会えたからこそだとも思います。
2020.08.23(日)
文=石津文子
撮影=榎本麻美