「桜坂はどこですか」地元は困惑も……

 「桜坂」は、福山が「未来日記V」で青年相手に語ったような実体験を投影したものだった。

 同シングルの販売元であるユニバーサルビクター(現ユニバーサルミュージック)の当時の宣伝担当者は、福山の《デビュー10周年ということで、今までにないものにトライしようとの想いがあり、歌詞も“私小説”を書いてみようと。そしてでき上がった曲》と説明している(※2)。

 「未来日記V」が放送されるや、テレビ局には「桜坂はどこですか」との問い合わせが殺到し、桜坂は一躍観光名所となる。番組中に出てきた坂にかかる陸橋には大勢のカップルなどが詰めかけたが、なかには問題を起こす者も現れた。

 周辺は住宅街にもかかわらず夜中に「桜坂」を歌う者や、ゴミを散らかしたままにする者もいて、地域の住民を困らせたという。橋の欄干も心ないファンによって落書きだらけになり、アミューズ側が塗り直し費用の提供を申し出たほどだった(※1)。

「裏声でささやくように……」230万枚ヒットの分析

 そんな狂騒のなか、「桜坂」は「未来日記V」が幕を閉じたあと、満を持してリリースされるや、たちまち大ヒットし、230万枚を売り上げた。現在にいたるまで福山にとって最大のヒット曲である。

 歌詞だけでなく、福山は歌唱においても新しい挑戦をしていた。地声と裏声の中間くらいの声域で歌ったのだ。これについて担当ディレクターの萬年里司は《裏声だと、隣でささやくように歌ってもらっていると錯覚するでしょ?

 このプライベート感覚が、現代人に受けたんでしょう》と、ヒットした理由を分析している(※3)。

 福山はこれより前、1995年から98年までの2年半、音楽活動をほぼ完全に休止している。それまでに「IT'S ONLY LOVE/SORRY BABY」(1994年)、「HELLO」(1995年)と100万枚を超えるヒット曲をあいついで生み出しながら充電期間に入ったのは、周囲のスタッフとすれ違いが生じ、福山自身も精神的・肉体的に疲労を感じたためだった。

 1998年に活動を再開するにあたって彼は、《セールススケールは多少小さくなってもいい。でも、無理せず、自分にフィットした曲で一度、勝負したい》との目標を掲げ(※4)、試行錯誤を重ねる。富坂 剛による著『福山雅治の肖像』には、彼が活動再開以来の“自分の音楽探し”の過程でひとつの形として結実させた作品こそ「桜坂」なのではないか、とある。

 《たとえば1日50個しか作らないけど、すぐ売り切れる饅頭屋、みたいな生き方がいいと思う》と自らを職人にたとえた福山だが、そんなふうに曲を1つひとつ丁寧につくり込む姿勢を見せるようになったのが、「桜坂」をつくったころだった(※4)。

2020.05.13(水)
文=近藤 正高