2019年2月、近田春夫の綴る週刊文春の長寿連載「考えるヒット」から興味深い書籍が誕生した。

 『考えるヒット テーマはジャニーズ』(スモール出版)。タイトル通り、ジャニーズ事務所に所属するアイドルたちの曲を扱った、神回ならぬ「ジャニ回」を抽出してまとめたスピンオフ的な一冊である。

 その出版を記念し、ジャニーズ事務所が60年近くにわたって生み出してきた音楽をめぐって1951年生まれの近田氏と語り合うのは、2016年に『ジャニーズと日本』(講談社現代新書)を上梓した1983年生まれの矢野利裕氏。

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▼talk03
ジャニーズ低迷期からの復活

左から:矢野利裕氏、近田春夫氏。ともに、ジャニーズへの造詣の深さにおいては人後に落ちない。
左から:矢野利裕氏、近田春夫氏。ともに、ジャニーズへの造詣の深さにおいては人後に落ちない。

――70年代後半の低迷期を、1980年の田原俊彦のデビューに始まるたのきんトリオの快進撃で一気に脱出しましたね。

近田 俺は3人とも知らなかったんですよ。ドラマ(TBS系「3年B組金八先生」1979年)も見ていないし。ただ、ポニーキャニオンでトシちゃんを担当していたディレクターの羽島(亨)が、たまたま俺の大学の後輩かなんかだったもんで、声がかかったの。

 当時はジャニーズも低迷期だから、ドラマで盛り上がった子のアルバムを出しますなんて言っても、いい書き手がなかなか集まってくれないわけ。だから俺なんかが書いているんだよ。「田原と近田春夫のパンク・ジョーク」なんておしゃべりを入れたりとかさ。

 そのときはジャニーさんとメリーさんが、俺が仕事していたスタジオに二人で来て「こういうのを書いてほしい」って。どのぐらい低迷していたかわかるでしょ(笑)。

矢野 あの天下のジャニーさんが。

近田 トシちゃんみたいな能天気な感じの明るさって、それまでのジャニーズにはなかったんだよね。どこか陰りがあったりとか、訳ありだったりとか、いろんな意味で怪しかった。そういう部分を彼の出現が払拭したというかね。それはたのきん全員、スタートが歌じゃなくてドラマだったのも関係あるかもしれないけど。

矢野 マッチ(近藤真彦)って山下達郎が作編曲を手がけた「ハイティーン・ブギ」(1982年)を歌ったじゃないですか。当時はどんな受け止められ方をしたんですかね?

近田 俺はそのときの印象があんまりないんだよね。

矢野 山下達郎の曲っぽくはないですよね。

近田 違うでしょう。KinKi Kidsの「硝子の少年」(1997年)もそうじゃん。どっちかっていうとジャニーズのタレントに寄せて作った感じだよね。

矢野 当時の記事を読むと、ジーンズとかスニーカーが不良とか反抗の象徴みたいに言われていて、マッチってそうなんだ、と思いましたけど。

近田 トシちゃんがフワフワしてカラフルな感じだったから、なるべく違うカラーにしたかったんだろうね。硬派な感じというか。うまく棲み分けできたよね。

――その後、シブがき隊、少年隊、光GENJI、男闘呼組など続々デビューしましたが……。

近田 そのへんはアーティストのキャラよりも、楽曲の面白さとかローラースケートとかの印象が強いんだよね。それだけ曲が充実していたんじゃないかな。忍者とかもさ。

矢野 忍者のデビュー曲(「お祭り忍者」1990年)は美空ひばりでしたね。

近田 そうそう。「お祭りマンボ」をアレンジしてね。

矢野 で、「おーい! 車屋さん」(1991年)のB面は笠置シヅ子。「ヘイヘイ・ブギー」をもじった「ヘイセイ・ブギー」でした。

近田 よく知ってるね!

矢野 どういうセンスなんだろうって。聴いたらジャネット・ジャクソンみたいだし。

2019.07.24(水)
構成=高岡洋詞
撮影=山元茂樹