近畿地方の住人でもなければ、京都と近江、といわれても、距離感が掴みにくい。ずいぶん遠く離れているような気もするが、実は花見・紅葉シーズンなど、京都市内に宿が取りにくい時などには、琵琶湖畔の大津あたりに泊まってもさほど不便はない。JRで京都駅からわずか2駅10分、そうした交通機関の存在しない時代であっても、さほど遠くは感じられない土地だろう。
同じ大津市内、瀬田川の右岸に位置する石山寺に多くの貴族たちが都から参詣したという記録を見ても、京都からの距離感は実感できる。参詣者には女性も多く、『蜻蛉日記』の著者である藤原道綱母、『更級日記』の著者である菅原孝標女ら、平安時代の「女流作家」たちがこぞって参詣した。中でも『源氏物語』の作者である紫式部は、執筆前にこの寺へ参籠して物語のインスピレーションを得たという伝説が残っている(紫式部の当時の居室とされる部屋が現在も公開されている)。
中央にわが国最大の湖・琵琶湖を抱き、その外周を山々に囲まれた近江は、天智天皇が近江宮を置いたこともある、古代からの要衝の地だ。湖東には古代から畿内~東国を結ぶ東山道が、湖北には近世、北国街道(北陸道)が通り、琵琶湖の水運を利用した交通も盛んだった。そして中世末期から近世初頭にかけて、天下に号令することを夢見、京都へ上ろうとした戦国大名たちは、そこへいたる最後の関門であった湖東の地で熾烈な戦いを演じた。
一方、湖の西、京都と近江を隔てるようにそびえる比叡山には785年に最澄が入り、788年に延暦寺の起源となる寺を創建して、天台宗を開いた。『梁塵秘抄』に「近江の湖は海ならず、天台薬師の池ぞかし」と謡われたように、中世にかけて、この地方は宗教的には延暦寺の影響下にあり、天台宗を中心に仏教が深く信仰された。
こうした地理的、文化的条件を背景に、琵琶湖沿岸の地では仏教・神道美術の数々が豊かに育まれた。もちろん織田信長による比叡山焼き討ちなど、兵火による被害がなかったわけではない。しかし京都中心部が応仁の乱をはじめとする戦火で焼き尽くされ、王朝以来の仏像や寺院建築が極めて少ないのとは対照的だ。そして京都からの距離を考えれば、当時都で活躍した仏師たちが腕を振るった作品──京都にはもう残っていない──が現存している可能性もある。
2012.09.29(土)