海抜2240メートルの高原盆地に位置する、メキシコの首都メキシコシティ。人口約2000万人というこの巨大都市から北へ向かう旅で出合うのは、カラフルな街並みや民芸品、ワインにメキシカングルメ……。歴史と現代が融合するメキシコ中央高原への旅は、発見と感動に満ちていた。

 早朝、数多の人と車が行き交う、エネルギッシュなメキシコシティ中心部から車で北東へ。途中に車窓から、山の斜面にずらりと並んだカラフルな家々を眺めながら、走ること約1時間。メキシコ最大の都市遺跡である、世界遺産「古代都市テオティワカン」に到着する。

 この地を訪れると、まずその壮大なスケールに息をのむことだろう。

20キロ平方メートルに及んだという市街の中で、もっとも巨大な建造物である「太陽のピラミッド」(高さ約65メートル)。頂上まで登ることもでき、この遺跡群のシンボルとして人気が高い。

 「これらの遺跡は、紀元前200年頃に建築がスタートしたと言われています。その後、トウモロコシ農耕を基盤に最盛期の紀元400年頃には人口約20万人を有する巨大都市に発展したわけです」と解説してくれたのは、メキシコ在住38年のベテランガイド、喜代田質吉さん。

独自のユーモアを交えながら、テオティワカン文明の歴史をわかりやすく教えてくれる喜代田ガイド。「今はもう剥がれていますが、この壁の上にまず白の塗料を塗り、さらにカイガラムシから採取したエキスを使った紅の塗料を重ね、その上には装飾も描かれていたそうです。当時の紅色に染まった都市は、さぞ華やかだったでしょうね」
王も一般市民も、家族単位で、排水・給水機能を完備したマンションのような集合住宅で暮らしていたという。区画整備された住宅跡地は、歩いて巡ることができ、所々で当時の生活様式を垣間見ることができる。

「テオティワカンでは、宗教も文化も違う約12部族が共に生活していましたが、その中で争い事はほとんどなく、とてもハッピーに生活していたそうです。なぜなら、三権分立がきちんとなされ、市民を上手くまとめることができるカリスマ的なリーダーがいたから。紀元前に、まるで現代社会さながらの統治体制をとっていたというのは、かなりの驚きですよね」

テオティワカンの第一神である雨の神、トラロックが描かれた壁画。上から斜めに入っている斜線は、恵みの雷雨を表している。
壁や柱に刻まれた文様には、テオティワカンの歴史を今に伝える重要な意味が。日本を含め、各国から研究者が集い、長年にわたり謎解きを続けている。

 テオティワカンの先鋭的な文明の歴史を学んだところで、北端に位置する「月のピラミッド」(高さ約46メートル)に実際に登ってみることに! がっちりとした石段を、太陽の日差しを背に受けながら、ゆっくりと上がる。

 実は、メキシコシティの標高は約2250メートルと、富士山五合目あたりに位置するので、酸素が薄め。息切れしないよう、自分のペースで進みたい。

「月のピラミッド」の上から見渡すテオティワカンの遺跡群。のびのびとした青空を間近に感じながら、しばし、悠久の歴史に思いをはせる。
市街の中央を貫くメインストリート、通称「死者の大通り」。街の中心にあったこともあり、後に、この通りから人骨が多数発見されたことからこの名が付いた。この通りで、市場が開かれるなど、商業が盛んに行われていた。

 約900年もの間、平和に続いたテオティワカン文明が突然に終幕を迎えた理由が気になるところ……。

「紀元650年頃、この地は突然の干ばつに襲われ、それが約30年も続いたそうです。その間、生贄を捧げて神に祈るなど、いろいろと努力はしたようですが、だんだんと食料がなくなり、人々は飢えていきました。そして紀元700年頃のある晩、ついにこの環境に我慢ならなくなった市民たちが、街に火を放ち、一夜にしてこの巨大都市は滅びてしまったというわけです。テオティワカンにはまだ紐解かれていない歴史も多いですが、最大の謎は王の墓が見つかっていないこと。これからも世界中の研究者たちが探求を続けるでしょうね」

遺跡の周辺には、お土産ショップが多数あり、太陽と月が描かれたピラミッドの置物も。

 メキシコ人が一度は訪れたいと願う、メキシコシティ近郊最大の観光スポット。土日の午後は特に混雑するため、午前中の早い時間に訪れるのがおすすめだ。

2017.07.29(土)
文・撮影=中山理佐