柳宗悦、濱田庄司、河井寬次郎…それぞれの“民藝SHOCK!!”
今回の展覧会のタイトルになっている“民藝SHOCK!!”というのは、河井自身が民藝に出会ってショックを受けたという意味なんです。そもそも「民藝」というのは、1924(大正13)年頃、柳と河井、濱田が「民衆的工芸」の略称として作った造語です。
民藝の条件としては、「民衆の中で生まれ、日常で使われてきたもの」「民衆の生活や信仰に寄り添うもの」「無名の職人たちが作り継いでいくもの」「分業や反復を含む手仕事の中で成立しているもの」「機械化以前の生活の中から生まれた、生活のためのもの」「用の目的に誠実なもの」などとされています。
3人の民藝との出会いですが、まずは柳が白樺派※の活動の中で、朝鮮王朝時代、いわゆる李朝の工芸品に出会い、収集を始めたんです。1921(大正10)年5月には東京の神田で、朝鮮民族美術展覧会を開催しているんですけど、それを河井が見に行って、朝鮮の焼き物に“フラフラになる”ほど衝撃を受けたみたいですよ。※1910(明治43)年創刊の雑誌「白樺」を中心に、学習院出身の青年たちや作家らにより形成された大正時代の代表的な文芸思潮
その後も柳は李朝の工芸品の収集を続けており、収集の過程で、1924(大正13)年、山梨県で木喰上人が彫った「木喰仏」に偶然出会うんです。ものすごく力強い仏像なんですが、それに非常に感銘をうけて、木喰仏の研究にのめりこんでいくんです。
一方で、濱田は、1920(大正9)年に日本に滞在していた英国の陶芸家バーナード・リーチと一緒にイギリスに渡って作陶していた。イギリスには、18世紀後半から19世紀ぐらいにかけて、庶民のために作られていたスリップウェアという焼き物があるのですが、現地でスリップウェアに出会い、日常の中で使われる雑器の美しさに感銘を受けたんですよ。そして、日本に持ち帰った。
河井はもともと濱田の友人で、濱田がイギリスから持ち帰ってきたスリップウェアに同じく感動したんです。さらに、柳の家で木喰仏を見たときもまたフラフラになるほど衝撃を受けたと言われています。
デビュー前・デビュー初期の河井寬次郎
河井自身はというと、いかにも職人的な陶工というイメージがあるけれど、窯業技術者・科学者なんです。島根県安来市で生まれ、17歳で陶芸家になることを決めて、東京高等工業学校(現・東京科学大学)窯業科に入学するんです。そこは、単に焼き物をつくるというより、その土台となる窯業技術を学ぶところで、ここで窯業技術の基本や化学をしっかりと身につけた。その後に就職した京都市陶磁器試験場でも、中国の古い焼き物の釉薬を研究していました。
デビューは1921(大正10)年、東京と大阪の高島屋で開催された「第一回創作陶磁展観」です。その後、3年間ほどは当時流行っていた中国陶磁の影響を受けた作品が多かった。
その頃は、中国が清王朝から中華民国に変わった時代で、欧米列強が中国に進出してインフラを整備する中で、土の中から漢時代の陶器や、俑(土の人形)、唐三彩など唐時代のものがたくさん出てきたんです。
これに日本画家や西洋画家、彫刻家など日本の美術家が注目して買い始めたから、古美術商たちが一生懸命中国まで仕入れにいった。徐々に美術家ではないコレクターも現れ始めて、昭和初期には、静嘉堂を創設した岩崎家や永青文庫を創設した細川家なども集め始めました。こういった美術商や美術家の所蔵品を河井はおそらく見ています。
イギリスでもジョージ・ユーモルフォプロスをはじめとしてコレクターが出現し、個人コレクションをカタログにして出版する人も多く、そういった図録なども河井はチェックしていたようです。
河井のデビュー初期の頃の、南宋時代や元時代の中国各地の陶磁器の影響がみられる作品は、今回の展覧会でも、館蔵の唐三彩、宋磁の名品と合わせて展示されます。
