第175回芥川賞・直木賞の受賞作が、本日7月15日、東京・築地の料亭「新喜楽」にて決定する。選考会直前、今夜の発表をリアルタイムで楽しむために一部の両賞候補作の冒頭を特別公開。

 奔放に生きてきた茜は、妊婦検診で採取された血を取り戻しに病院へと向かう。圧倒的な罪と罰を描いた直木賞候補の鈴木涼美さんによる『悪い血』。


悪い血

 日蔭と日向の境目が不自然に揺れるので上を見上げると、外壁塗装工事の最中らしい建物を養生用のビニールが覆い、その一部が剥がれて少し白っぽい晴天の手前で揺れている。血の抜かれた左肘の内側に痛みはなく、そこに貼られた止血用絆創膏(ばんそうこう)(のり)がわずかに(かゆ)いだけだ。

 数十分前、私はくすんだ赤地で織られた布製の椅子に座り、携帯画面と手元のファイルにある番号を交互に(にら)んでいた。ようやく順番がきて立ち上がり、人気女優の不倫の後追い記事が表示された画面を暗くして、番号を叫んだだけですぐに引っ込んだ助産師の後ろで扉が閉まりきる前に急ぎ足で部屋の中に入った。小さな処置室を想像していたが、実際は机でつくった島がいくつもある大きな部屋で、入って正面のリクライニング機能のついたいくつかの椅子には、今にもはち切れそうな妊婦が二人並んで座らされ、身体に奇妙な器具を取り付けられていた。

 血を抜かれるのはもっと手前の簡易なテーブルで、私の腕の血管が細いせいで何度か失敗した若い助産師が引っ込み、声の大きいひっつめ髪の助産師に交代するという停滞はあったものの、皮膚の表面を針が正しく突き、はっきりした、しかし一瞬の痛みがあってからはあらゆることが順調に進んだ。ごめんなさい何度も刺して、もう一回だけ左腕で試してみてもいいでしょうかと恐縮する若い助産師に、気にしないでください私血管が細いのか採血しょっちゅう失敗されるんですスムーズに採れたことほとんどなくて誰でも何回も刺します慣れてるんですと気を遣っていた私は、ベテランぽいひっつめ髪があまりにスムーズに左腕の肘の内側のほんのり青い血管から血を採りだしたので、近くで見ていた若い助産師がいたたまれなくなって、むしろひっつめ髪に対してもう少し空気を読んでくれという種類の苛立(いらだ)ちを感じた。それになんとなく、ものごとがスムーズに進むことに対する恐怖があった。

 ひっつめ髪の匠の技のせいで、真空管に四本もの血液を抜き去った針は瞬く間に皮膚から抜かれ、あっという間に私の身体は管四本分の血液だけ残してその大きな部屋から外へ出されていた。待合室ではまたしばらく待つことを予想していたが、今度は受付からすぐに同じ番号で呼ばれて、会計の窓口で要した時間はカードの暗証番号を一度間違えたのを含めて三分だった。

 日蔭と日向の不安定な境目を歩きながら、何度も抜き差しされた針の先のツンとした鋭さや、受付で返された受診票の控えについて思い出していると、絆創膏の内側がくすぐったいような気になって、すでに皮膚の一部のように(しわ)を作っているそれを端のほうから(めく)った。頼りない見た目の割には糊が強力で、勢いよく剥がした跡はぼんやりと赤い。塗装中の建物の横を通り過ぎ、左手に神社の入り口が見えてきたので、道を渡る信号を確認すると、やっぱり空は晴天のくせに白い。もう少し青に深みのある空の方が個人的には力強さを感じるのだけれど、大通りに等間隔で生えている街路樹の葉は光を反射して、のどかな昼には違いないようだった。

次のページ 圧倒的に違う、という気分がぬぐえない