徹底的に調べ上げられる管四本分の血液

 膀胱の中のこぶしが上に突き上げるような乱暴な尿意に起こされて携帯電話の画面を明るくしてみると、一の横に零が並んで午前一時ちょうどだった。ぞろ目やきっかりちょうどの時刻が目に入るたびに、何かを念じる癖が抜けないので仕方なく念じ、起き上がって明るいバスルームに入ると、産院の処置室に残してきた血液のことが気になって、そう簡単には暗い寝床に戻れなくなった。管四本分の血液はあらゆる検査に回され、私の身体が妊娠を継続し、その先にある出産をする資格のあるものなのか、あの、清潔で温かみのある色調の産院に相応(ふさわ)しいものなのか、徹底的に調べ上げられるのだ。昼食を終えて自宅に戻り、産院の窓口で受け取った受診票の控えと、今後使用することになっている二回目以降のものに記された検査項目をひとつひとつ確認した。よく見ると一回目と二回目以降の項目は微妙に違う。一回目は血液型、貧血、血糖、不規則抗体、HIV抗体、梅毒、B型肝炎、C型肝炎、風疹。それと別紙で妊婦子宮頸がん検診。二回目以降は週数に応じ、各回一項目検査できますという但し書きとともにクラミジア抗原、経膣超音波、HTLV—1抗体、貧血、血糖、B群溶連菌、NSTなど。気が滅入る名称が連なるが、実際はもっと何か色々と細かく数値化されるのかもしれない。

 寝息をたてる彼を残したまま暗いベッドルームの扉を閉め、カウンターキッチンの照明をつけてダイニング側の椅子に座り、もう一脚の椅子の上に置きっぱなしにしていた人工皮革の意識が高いブランドのバッグの口をあけて、産院での会計時に受診票控えとともにもらった立派な封筒を取り出してみた。少し重みがある大きなモスグリーン色の封筒は産院のロゴと名称、住所が、それぞれ日本語と英語でプリントされている。中をのぞくと、同じモスグリーン色の長形の封筒とパンフレット、クリアファイルに入った数枚の説明用紙などが入っている。クリアファイルをとって、受付での説明を思い出しながら何枚か紙をめくると緊急時用の電話番号が書かれた、夜間通用口の地図が見つかった。

 電話番号は、二十四時間転送が可能という代表電話と、夜間や休診日のみ使用できる警備室直通の二つの番号が両方太字で書かれている。二十四時間通じる番号があるのであれば、夜間専用のものがある理由がいまいちよくわからず、こういう深夜一時にかけるのであればまずどちらにかけるのが妥当なのかもわからないので出鼻をくじかれたような気がして一度紙とクリアファイルをカウンターに置いた。バッグの内ポケットを漁って加熱式煙草の本体とカートリッジの入った箱を手探りで見つけ、しばらく掌のなかでもてあそんでから結局外に取り出し、カートリッジをひとつセットする。やめきれずにいる煙草は先週からせめて加熱式のものに変えた。キッチンの換気扇が強になっているのを音で確認してから加熱ボタンを押す。古い分譲マンションに賃貸で入居してすぐ、管理室にいる初老の男に換気扇はつけっぱなしにしたほうがいいと入れ知恵された。リフォーム前の部屋は防火ダンパーが設置されていないから換気扇を消すと他の部屋の臭気がうんぬん。理屈はよくわからなかったがひとまずそのようにした。

 加熱された煙草をひと吸いして改めて夜間通用口の地図を見る。今から電話をかけて、血液を返してくれるように頼めば、検査にまわる前に回収されるだろうか。結果がでるのは一週間から十日後、結果を聞くのは二週間後の妊婦健診で、と伝えられた。かなりゆっくりとしたスケジュールなので、まだあの処置室の冷蔵庫かどこかに残されているのではないか。

 暗くなっていた携帯画面を生体認証で起動して、東京の市外局番から始まる夜間専用の番号をゆっくり正確に打ち込んでみた。最後の数字を入れたところで、忘れていた煙草の二吸い目をすると、私がこの番号にかけたせいでどこかの穏やかな出産をするはずだった妊婦の電話が通じず、常位胎盤早期剥離か妊娠高血圧症候群で死ぬかもしれないという気になってきて、通話ボタンを押す機会を逃した。

 猛烈に何かが許しがたいという気分になって、ほとんど寝間着みたいな格好にグレーのパーカーを羽織っただけで私はすべての書類を戻しいれた意識の高いバッグを掴み、なるべく音をたてないように鍵をかけて家を出た。寝間着と言っても黒のスウェットパンツは真新しいものだし、グレーのパーカーは伊ブランドのものだし、あえて素足に脱ぎっぱなしになっていたビジュー付きのサンダルを突っ掛けたが、二階にある部屋から一階まで階段で降りている途中ですでにそれを後悔した。階段を降りる際に最近増えた体重がかかると足がサンダルの傾斜を前の方にむけて滑り、ストラップのビジューが足の甲に食い込む。

 マンションのエントランスの重い木製の扉は、内側から近付くと人感知センサーによって自動で開く。五年前の大規模改修工事で新たに設置されたその扉に誘われるように、気づけば私は深夜の環状道路の歩道に降り立った。パンデミックの前夜、四年と少し前にこのマンションに引っ越した時にはすでに改修工事が概ね完了しており、築年数にしてはずいぶんきれいなエントランスや外の植栽と、黒いソファが置かれたちょっとした共用スペースが気に入っていた。一人で暮らすのにちょうどいい部屋の間取りも、住みだしてみれば想像よりずっと使いやすく、持ち主に売る気が芽生えたら、この部屋を買って完全に自分のものにするのはどうか、とよく夢想した。

 環状道路は夕方ほどではないにせよ、片側二車線を一気に渡るのは(はばか)られる程度の車が走っており、北側に向いた反対車線にはいくつか空車のタクシーが止まっていたものの、私は結局ビジューの食い込んだ足をサンダルにはめ直して、車がほとんど通らない一方通行の細い道の方へ向かって歩き出した。深夜のアスファルトは少し湿り気を帯び、黒々とした表面は街灯の光も吸収するのか影を作らない。その現実味のなさに一瞬怖気(おじけ)づくが、環状道路沿いにあるメキシコ料理屋の角を曲がると、こんな時間にもかかわらず犬を連れたスウェット姿の高齢男性とすれ違い、少し背中を押された気分になった。

次のページ このまま妊娠を続行するのであれば……