圧倒的に違う、という気分がぬぐえない

 受診票は初めて産院を訪れた前回の直後、母子手帳と一緒に自治体の窓口で渡されたもので、実に十四回目までの束がある。それとは別に、見た目がほとんど変わらない、妊婦超音波検査受診票や新生児聴覚検査受診票なども混ざっていた。私の身体と、私の身体の内側で発生している生命は今後この大量の紙の束の分だけ異常を検査され、白血球数から血小板数、尿蛋白(にょうたんぱく)や尿糖まで細かい数値が印字された報告書にくまなく状態を記される。

 私は右手の力を抜いて、それを握る彼の握力を確認してから再び彼の手指を掴み、街路樹のせいでやはり影と光が複雑なまだら模様を作る広めの歩道を大きな交差点の方に向かって歩いた。素肌に涼しい気候のせいか、鼻をつく匂いは何もない。

 前回は、産院を出てすぐ御所の方角に歩いてタクシーを捕まえたのであまり意識せずに済んだが、通りをこのまま交差点方面へ進めば、一つ目の地下鉄の駅の少し先、左に大きな複合施設が見えてくる手前に、かつて数か月だけ暮らした、マンションと言うにはあまりに素っ気ないビルがある。そこは人生で何番目かに(ひど)い時期を過ごした場所だった。直前にモデル事務所の社長にあてがわれていた部屋に、あらゆる家財道具や衣類なんかを置いたまま面倒くさくなって逃げ込んだワンルームには、洗濯機も冷蔵庫もなく、飲み屋の客が同情してくれたカーナビくらいの小さいテレビと大きな化粧ポーチくらいしか持ち込んでいなかった。その何もない部屋に帰りたくないという理由だけで、毎晩好きでもない男の部屋に行くか、好きでもない女友達とカラオケばかりした。

 さらにそこから複合施設までの道中には最近死んだ悪い男の経営していた店があったし、そのまま二つ目の地下鉄の駅の真上にある大きな交差点まで出れば、もっと時代を(さかのぼ)った、やはり三番目か四番目に悪い時代によく待ち合わせに使った喫茶店の看板が見える。明治通りから歌舞伎町に入っていく途中の、小さいマンションの一室にあったカジノにのめり込んで、飲み屋のつけ払いが滞っていたので、しばらく新宿に近寄らなかった頃だ。

 繋がれているように見える右手の力を再び抜いてみる。脱力しても私の手は下に落ちることなく、彼の左手の指に繋がれたままだったので、私は注意深く、なるべく彼の握力と同じだけの力で握り返した。もうすぐで日がちょうど真上にくるのに、高いビルの多いこの辺りの道路は車道の中央付近であっても何かしらの影がうつってなかなかよどみのない日向というのにはなり得ないでいる。いくらか血を抜かれた後だからか私の足はいつもより少し軽く、地上から数ミリ離れたところを踏みつけているような感覚が抜けない。

「食べたいって言ってたフレンチトーストのお店まで歩く?    俺は前に言ってた和食屋さんの定食もいいなって思うけど」

 私はすぐに、和食屋でいい、とぶっきらぼうに答えた。私がこの辺りで(すさ)んだ時間を過ごしていた時期にはまだ成人すらしていなかったはずの彼の神経は細やかで、季節の変わり目や私の気分を敏感に察知しては、(おおむ)ね最良と思われることをいつでも口にする。なんとなく最近自分の気分が安定しているように思えるのは、沈んだり取り乱したりする前に、聞きたい言葉が耳に入ってくる環境になったからだ。かつて疲れるほど男に気を遣っていた私の神経は影を潜め、彼に対して安心して横柄な態度をとる。だからといって、脇の甘い避妊で妊婦健診を受けるような事態になってしまったのはいくらなんでもやりすぎだった。

 神社の向かいの奥まった場所にある和食屋は、古い日本家屋を改修したらしい造りで、女を脱がせることしか考えていないモデル事務所にいた頃に二、三度訪れたことがある。正午前の店内は客もまばらで、待たされることなく奥の小上がりにあるテーブル席に案内された。昔、夜にお酒を飲みに来た時には半個室の座敷に通された記憶があるが、昼はサラダや白米がバイキング形式になっているため、身動きのとりやすいテーブル席から埋まっていくようだ。以前グルメサイトで調べた限りでは、最近は夜の会食よりランチ時間帯の定食が評判なようで、数量限定のカニクリームコロッケは絶対に食べるべきだと口コミがあった。まだ産院に行くことになる前、彼と暮らし始めて間もない頃に一度、この近くで映画を観た帰りに寄る店の候補に上がり、結局行かずにその日は別の店で火鍋を食べたのだ。

「気になってたから嬉しいよ」

 彼がそう言って私のカニクリームコロッケと自分の鮭の西京焼きの定食を頼み、飲み物とサラダをとって、カレーまで食べ放題であることに少し驚いた会話をしながら席に戻ると、ちょうど正午を過ぎたころで、入り口の方にどっと人が滞留し始めた。人が増えてくると私の通された席の良さが際立ち、また無駄なことで運を使ってしまったことを悔やむ。最近は幸運に見舞われる度に少しずつ身体が嫌な温度の汗に包まれていく。

 定食はすぐに運ばれてきた。私の食べたいものが私の食べたい量だけ載っている皿に、彼が意識してか無意識なのか自分の西京焼きの、一番きれいな焼き色をしている部分を載せてくれた。コロッケだけでも十分だった皿はそれ以上になる。

「コロッケ食べるでしょ」

 私はそう言って、キャベツから一番遠いところに置かれたきつね色で綺麗な俵型をしたひとつを彼の皿に移そうと箸で挟む。彼は先ほどからつついていたバイキングのサラダの最後のトマトを箸で挟んで、断るようにそれを横に少し振った。熱いものが出てきても、冷たい副菜を先に食べるのは彼の癖だ。(まれ)に彼にご飯をつくるようになって最初の内は気になったが、少し猫舌であることを知っている今ではそれが正当なやり方なのだと感じる。

「いいよ、茜ちゃん先に食べなよ」

「だって、さっきコロッケ食べたいって言ってたもん。私が先に頼んだから鮭にしたんでしょ」

「違うよ、メニュー見たら魚食べたくなっただけ、気にせずいっぱい食べな」

「お魚もらったからお返し」

 彼が遮るので私は俵型のクリームコロッケを二つに割って、片方を強引に彼のお皿の端っこに置いた。酷く荒んだ若さを過ごしてきた私は急いで何か善行をしないといけないのだ。鮭のお返しと言ってしまえばそれは善行として本来数えられないが、何もしないよりはいい。

 ただ不安定なその形のせいでコロッケはそこに留まらず、転がるようにずれて魚の皮目に衝突した。トマトを口に入れた彼はコロッケを箸でとってご飯の入ったお茶碗の上に一度置き、そのまま一口で食べる。

「うん、美味しい、ありがとう。でも茜ちゃん二人分なんだからしっかり食べないと」

「十分しっかり食べてるよ、太るの良くないってさっきお医者も言ってたじゃん」

「まだ大丈夫だけど、後期になったら少し体重管理したほうが安心っていうだけでしょ。もとが細すぎるんだから、少しは体重増やさないと心配だよ」

 私たちの言葉に反応したのか、彼の真後ろに座ったウエストが異様に細い若い女がちらっとこちらのテーブルを振り返るように見た。私は反射的に背筋を伸ばし、すでに元の姿勢に戻っている女に向かって威嚇するようにかつての仕事用の顔を作ってしまう。男を受け入れ、女を牽制して欲しいものを手に入れていた時代の顔。彼は綺麗な箸使いで魚と米を交互に口に入れ、やっぱりカレーも食べようかな、なんて(つぶや)いている。カレーの響きについ口の中から食欲が反応してしまうが、彼の後ろの女のウエストが気になって少し吐き気もした。この辺りに住んでいた頃にせよ、もっと最低な暮らしをしていた時にせよ、サイズゼロのデニムが入らないような体型になることは考えられなかったし、実際簡単に体型は維持できた。指先を喉の奥に突っ込んで、そもそもそんなにカロリーのない蒟蒻(こんにゃく)ゼリーや春雨サラダをすぐに便器の中にぶちまけてしまえばよかった。夕方以降はお酒を飲むから、指先一つ使わずに胃の中のものはすべて吐き出していた。体重が増えると視界がどんよりする気がしていた。妊娠してから、サイズゼロどころか、通常のSサイズのパンツもすでに少しきつくなりつつある。

 圧倒的に違う、という気分がぬぐえない。いかにも妊婦という会話をして、身重の身体を気遣われて、ゆるめの下着を着けて、周囲に赤ちゃんを迎える男女のような目で見られて、信じられないくらいダサいデザインの母子手帳を持って産院に行く。ほんの一瞬、決断めいたことを言っただけですべてがあまりにテンポよく流れていってしまって、流れの速い水の中に手を突っ込んでも、散り散りになった紙はひとつも手でつかむことができない。

 彼の方を見ながらすでに湯気の立っていない味噌汁をすすり、いま自分が向き合うべき相手が、正しく気遣いをしてくれるこの男ではないことだけを確信した。味噌汁の具は大根だけで、私が家で出すものよりシンプルだが、出汁がしっかりしているせいか味噌が良いのか、冷めてもうちのよりずっと美味しい。気づけば家では味噌汁を最後まで残して一気に飲むことの多い彼のお椀がすでに空に近くなっている。

「やっぱちょっとだけカレーとってくる。茜ちゃんも一口食べるでしょ」

 彼が席を立ってすぐに給仕の高齢女性がやってきて、すでに彼が頼んでいたご飯のおかわりをテーブルに置き、かわりに空いた皿を下げて行った。混みあった店内で長身の彼の姿を探すと、サラダバイキングの奥に二つ並んだ深めの鍋の左側の方にお玉を突っ込んでいる最中だ。こんな事態に巻き込まれながらも普通に生活を続ける彼を、不憫(ふびん)で健気に思う反面、うっすらとした軽蔑もこみ上げる。産科のトイレで、少し大きくなった腹をチェックするような角度で鏡を一瞥(いちべつ)した後、誇らしげな顔でリップを直していた若い女に対して持つのと似たような、うすら寒い感情が芽生え、そしてそんな感想を持っている自分に対して再度嫌な気分になるのだった。

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