第175回芥川賞・直木賞の受賞作が、本日7月15日、東京・築地の料亭「新喜楽」にて決定する。選考会直前、今夜の発表をリアルタイムで楽しむために一部の両賞候補作の冒頭を特別公開。
芥川賞候補の村司侑さん『ソリティアおじさんがいた頃』は、心のなかでこっそり“ソリティアおじさん”と呼んでいた元同僚の通夜に参加したことで少しずつ変化していく“わたし”の物語。
ソリティアおじさんがいた頃
ソリティアおじさんがいた頃のことを久しぶりに思い出した。今朝になって、みんな急に彼のことを話しはじめたのだ。はじめのうちは、退職しはってから今朝までだれも一言もなかったのに、と、ちょっとふしぎに思っていた。定年にならはったんは、えーと、おととしか。そっか、もうそんなんなるか、なつかしい、としか思っていなかった。
朝、社員通用門の白味噌色の鉄扉を、かすれた三山味噌株式会社の文字をさけて、黒いニットの手袋でよいしょと押した。はあー。白いため息が長々と出て、淡く膨らんで、すぐ消えた。扉がちょっと重いのもあるけど、心持ちがなんとなしに白っぽくもやつく感じだった。思えば、ここのところいつもそうか。同居人の野郎のことを考えながら出勤して、朝から変に疲れるのが最近の定番だ。ほんま腹立つ。いつからこんななったんやろ、と、きのうも、おとといも、その前も思ったのだった。たぶん、あしたも来週も思うんだろう。今朝も思った。あかん、切り替えよう、と今朝もそう思った。マフラーに口まで埋めながら、まだ暗い倉庫の荷受け場の脇を通りかかった。
そこで聞いたのが始まりだった。あたりに沈殿する酵母のにおいのなかで、男のひとの声が、低くくぐもって少し響いた。諏訪さんと井田さんだろう。姿は見えなかった。わざわざ探したりしないけど、この時間に原料倉庫にいるのはあのふたりだ。声は、黒野田さん、と聞こえた。ほかにも密やかにしゃべっていたけど、言葉としては聞こえなかった。でも特に気にしなかった。なつかしい名前が聞こえたからといって、前後が聞こえなかったからといって、わざわざ足を止めることはしなかった。なんの話やろ、とも思わなかった。ふたりは仕事に必要なこと以外はいつも野球の話ばかりしているから、あまり話しかけたくない。もし彼氏がそんなんやったら嫌やな、と思う。スポーツ全般興味ないし。興味あるなしというか、自分の趣味ばっか話されたら、かなんわ。その点、海史はまだましかな。趣味いうたら将棋ばっかりやけど、その話はあんましいひん。だいぶまし。まあ、そもそも諏訪さんと井田さんはだいぶ年上やし、お互いありえへん想定で、失礼は失礼やけど。それに、たぶん、彼女ができはったら野球以外の話もしはるやろ、知らんけど。などなど考えながら素通りした。
荷受け場のどんつきの白い防火扉を引いて、狭いわりに蛍光灯の光が強い階段に入りしな、黒野田さんだれやっけ、と一瞬思った。すぐに思い出した。ソリティアおじさん。なついわ。ひとり言を人知れず階段に落とした。傾斜が急で二階に上がるともう息が切れかけていた。というか切れていた。ちょうど三階から降りてきたスリムな黒のパンツスーツで髪の長い、直営店店長兼品質管理課長の菅野さんが、低い声で何かつぶやいていた。菅野課長はええとこのお嬢さんがそのまま歳を重ねたみたいな感じのひとで、肩書が長い。肩書からすると直属の上司ということになるけど、直営店のほうはほとんど丸投げされているのに近い。それでもいつもいそがしいひとで、原料やら資材やら、ついでに備品やらの管理と手配を一手に引き受けて、たしかに普通だったらそれだけでパンクしそう。という、年中解けないパズルに悩まされている菅野課長が、黒野田さんがなあ、とつぶやいた。またソリティアおじさん? と思ったけど、菅野課長はいつもの早足なので、挨拶だけでも急いで言った。息が切れて声が変になった。事務所のグレーの扉に手をかけていた菅野課長は、ちょっとびっくりしたような、でもすぐに優しい顔になって挨拶を返してくれた。少し安心した。
三度目に耳にしたのは、さらに階段を上って更衣室のある三階を目指す途中の踊り場だった。逆光の踊り場で、第一営業部長の平見さんが驚いたような悲鳴のような声を押しつぶして、黒野田さんの名前を呼んだ。びっくりした。踊り場には社長もいた。もうひとつ驚いた。偉い人は苦手だ。ふたりとも体格がよくて、通り抜けられそうにない。平見部長は実は社長と大学時代の柔道部の先輩後輩の間柄だ、と飲み会のたびにカミングアウトしていた。たしか社長が先輩、部長が後輩のはず。最近は飲み会自体ないから助かる。ソリティアおじさん、どうかしたん、と思う。そういえば黒野田さんも同じ大学と聞いたような聞かないような、うっすら記憶が、あるような、ないような。別のむかしの社員さんかもしれない。そのあたりで抑えきれずに、なんかあったんやろか、と思った。胸がざわざわした。とりあえず、へたった声でしないわけにいかない挨拶をした。ふたりとも太い声で、さん付けの挨拶を返してくれる。ふたり同時に手すりの側の腕を上げて、ごつい手をふくよかなあごや口元に当てた。それで通り抜ける隙間を作ってくれたつもりだろうか。セクハラとか嫌やで、と思った。ダッフルコートで手すりを拭きながら通り抜けた。あとでコートを見るのが怖い。手すり、天満宮の牛さんよりぴかぴかになるわ。
四度目は更衣室だった。チェックの事務服の結子さんがいて、安心した。ボブでくりくりパーマの結子さんはトイプーっぽい。海史が転職したあとは、ゆーこんさんこと結子さんが一番歳が近い先輩だ。背も顔もちっこいけど、中途で入社してすぐの頃いろいろ仕事を教えてくれた師匠でもある。頼れると思うし、頼りにしている。更衣室の内側からドアを閉めた。ラッチのかかる音がくっきり響いた。ゆーこんさんはロッカーの戸をそっと閉めながら振り返った。
おはようございます、と、なるべくいつもどおりに挨拶をする。
「おはよう瑠奈ちゃん、聞いた? 黒野田さんのこと」
また、と思う。いえ、と答える。わー、と思う。いや、やっぱり何かあってん。そろりと息を吸って、恐る恐るつけ足す。何も、聞いてませんけど。
「うん、わたしもさっき聞いてんけどな、亡くならはってん、黒野田さん」いま閉めたロッカーをもう一度開ける。
いちおう驚いて、えー、ほんまですか、と返す。吐く息が止まらない。けど、なんかもう知っていた気がして、逆に安心する。
「それがな」何を取り出すでもなくまたロッカーを閉める。「火事やってんて」
ええー、それは、とだけ口走って、言葉に詰まる。それは話が違う。
「特に病気もなく元気にしてはってんけど、って。なあ、怖いなあ、火事は。じゃ、先、行くしな」
