ソリティアおじさんになる前は
声がうまく出ない。ただ、うなずく。うなずいたままドアの閉まる音を聞く。息を吸って、止めて、考える。火事で亡くなる人生って、どんなやろ。頭がぐるぐるする。これがもし病気だったら、心の準備ができるだろうか。自分だったら、できることなら準備しておきたい。少なくとも周りは助かる、はず。祖父のときは事前に準備ができて助かったし、父も、義理の娘である母も、その点はおなじだっただろう、たぶん。あれは、えっと、六年前か。本人はどうだっただろう。わからない。いま、ぱっと思い出せることが何もなくて、頭も回らないけど、たぶんそれはそれでつらいこともあるだろう。それでも火事と聞いたばかりだから、病気か事故かというと、どうしても事故のほうがきつく思える。そのうえ、火事。事故のなかでも、あっ、ってなってすぐ死ぬのではなくて、火に囲まれて、包まれて、だんだん。熱いし、やけどして、一酸化炭素? どうなるんだろう。怖すぎる。正直、想像もつかない。ただつらい。ソリティアおじさんなんて心のなかで呼んでちょっと小ばかにしてしまっていたけど、すごく反省している。知っているひとが亡くなるのは本当につらい。黒い髪ゴムで首の後ろに短い尻尾をひとつ作る。細く垂れた横髪を指でよりよりする。淡い花がらの手ぬぐいを頭に巻いて、息をつく。紺色のエプロンの紐を背中で結びながら階段を降りる。慎重にドアを開け、事務所に入る。
むかし、良かった時代には社員も多かったのだと、たまに聞かされる。黒野田さんはソリティアおじさんになる前、有能おじさんか有望おにいさんで、そのまわりに社員も多くて、事務所のスペースも机もたっぷり必要だった時代があった、らしい。それで、いまはいくつかの共用デスクとむだに広くて暖房の効きにくい事務所が残っている。きょうはその広い事務所のところどころに、二、三人ずつ固まって、みんな丸い背中の向こうで何やら話し込んでいるから、余計に閑散として見える。ああ、と思う。倒産とか廃業とかの日の朝はこんな感じなんやろうな。知らんけど。
この事務所が狭く感じられるほど活気があった頃、ソリティアおじさんになる前の黒野田さんは、どんな仕事ぶりだったのか。仕事中にソリティアなんかするはずはなかっただろう。だれの目にも、自分自身でも、あんなふうになるはずがなかった。パソコンはあったのかな。みんな黒野田さんがソリティアおじさん化する前もよく知っているはずで、そう思うと、隙間風みたいな疎外感がして、少し寒気がする。くしゃみをがまんする。
音を立てないように出入り口のすぐそばの自席に座る。電話もパソコンもないデスクだ。下のお店には電話と電卓があるし、始業後は休憩以外ずっとお店なので、事務所のデスクに何がなくて不便ということはない。ただ、居場所という感じもしない。余っているから割り当てられただけの、借り物という感じ。まあ別にどうでもいい感想だけど。それで、まあ普段だったら座ってぼーっとしたり、ゆーこんさんかだれかとしゃべったりしているうちに始業になるけど、きょうはこの五分間がやけに長い。といってどこかの話に加わるのも気が引ける。途切れ途切れ聞こえる会話は、みんなソリティアおじさん化する前の黒野田さんが主人公だ。ソリティアおじさんになった最後の五年くらいは、当時みんなため息をついたり、顔をしかめたり、「また」「なあ」なんて目配せしあったりしていたのに、きょうの会話はそのずっと前から直結して、ソリティアおじさん時代はなかったことになっているみたいだ。そうやってその期間を削除してしまうと、中途入社から一年に満たないくらいしか残らないのが寂しい。いや、こっちの年表まで一緒に削る必要はないし、なんなら聞き役だけしていればいいというのはわかるけど、とにかく、黒野田さんのことをだれかと話す資格がない気がする。
ちょっと考えて、デスクの軽い引き出しを開ける。案外大きな音がしてびっくりする。大丈夫。きょうは英会話本ではなく、さらの領収証をデスクに出す。こっそり歩いて文具コーナーから社名スタンプとスタンプ台を持ってくる。席に戻って、領収証にスタンプをついていく。こうしておくと、あとで少しだけ楽できる。ゆっくり丁寧に押していく。
いつの間にか諏訪さんと井田さんも上がってきていて、文具コーナーの前に並んで立っている。でこぼこコンビで、ふたりとも工場では衛生白衣だけど、そこ以外では白のワイシャツに黒のスラックスで、ちょっとぶかっとして、歳がいった中学生みたい。叱られているみたいに、珍しく押し黙って立っている。沈痛な表情が逆に漫才のはじまりっぽい。ソリティアおじさんとの絡みは見たことがないけど、当然、いろんな積もる話があるんだろう。少し羨ましい。
定時には全員揃う。館内放送でむかしの歌謡曲をオルゴールにしたような曲が響く。それが始業のチャイムの代わりで、社長の趣味らしい。普段だったら持ち回りのようにだれかが小声で、みんなおるっちゅうねん、と毒づくところだけど、きょうはだれも何も言わない。すでに黙祷のようだ。
赤味噌色のベストというかチョッキの平見部長にうながされて、朝礼当番の諏訪さんがぎくしゃくした足取りで前に出る。何もかも細長いひとだ。ちらっと横のほうを見ると、丸っこい井田さんは近くの床を見つめている。諏訪さんによると本日は木曜日で、休暇、病欠はないそうだ。よかった、と、珍しく何かしらの感想が湧く。あとから知らされるひとがいなくて、よかった。それで日常五心の唱和に乗り遅れそうになる。別にそんな大きな声は出さないけど、経験上、いちおう発声しておいたほうが調子がいい。
