大西洋の光が降り注ぐ、ヨーロッパ最西端の国。そんな魅惑の地に魅せられ暮らした文筆家、ヤマザキマリの書き下ろしエッセイ。
*初出:CREA Traveller2026年夏号「海風と太陽に誘われてポルトガルに会いに行く」
慎ましくも美しき国 ポルトガル
14歳での欧州一人旅を皮切りに、これまで随分たくさんの国を訪れ、夫の仕事の都合で知らない土地に暮らしたことも何度かあった。そんな中でもヤマザキさんが一番印象的だった場所、または一番心地がよかった場所はどこですか、と問われると私は「ポルトガルです」と戸惑うことなく即答する。かつて、ポルトガル語の比較文学研究者だった夫に付き添い、息子ともども首都であるリスボンには8年間ほど居住したが、その時暮らしていた築100年の家には今でも時間があれば時々戻っている。
我々の家は、リスボンの下町から街の観光名物となっている黄色い路面電車に乗った西の終点、カンポ・ディ・オウリケという古い地区にある。引っ越した当時10歳だった息子は、この家から歩いて5分の現地の学校へ通い、私は床の傾いだ古い木造の集合住宅の一室で、毎日気ままに誰に見せるためでもない漫画や油絵を描いて過ごし、私の代表作である『テルマエ・ロマエ』もこの家で生まれた。
100年前の建造物の特徴ともいえる角の丸い、いかにもポルトガルらしいパステルイエローのその集合住宅には全部で8つの世帯が入っていたが、3階にある我が家の向かいにはその家で生まれ育ったという年配の男性が暮らしており、引越し当初まだ水道の通っていない私たちのために、毎日バケツに何杯もの水を汲んで玄関の前に置いておいてくれたこともあった。お礼を言いに行っても「たいしたことじゃない」と照れ臭いのか目も合わせず、シャツのボタンはいつも喉元まで閉められ、佇まいも振る舞いも目立つことを嫌う人だった。
CREA Traveller 2026年夏号
※この記事のデータは雑誌発売時のものであり、現在では異なる場合があります。
