中学卒業後、一般家庭から歌舞伎の世界へ。

 ここでは、映画『国宝』の主人公さながらの半生を送ってきた女方役者・河合雪之丞さんの著書『血と芸 非世襲・女方役者の覚悟』(かざひの文庫)を一部抜粋してお届けします。

 中学卒業を前にして国立劇場養成所の受験を希望する雪之丞さんに、ご両親が出した“ある条件”とは?(全2回の1回目続きを読む

◆◆◆

 私が歌舞伎俳優になりたいというのは、3代目猿之助の元で歌舞伎をやっていきたい、というのと同義でした。祖母は様々なジャンルの芸術家と繋がりが深かった人だとご紹介しましたが、彫刻家の朝倉文夫先生のお嬢様である、朝倉摂さんという舞台美術家の方も懇意にしていて、ご縁があったんです。

 もう少し詳しくお話をしますと、祖母の長男、つまり私の伯父・藤江孝は彫刻家なのですが、伯父の師匠が佐藤忠良さんという有名な彫刻家で、忠良先生が朝倉先生とお仲間でした。その娘の朝倉摂さんは当時、スーパー歌舞伎『ヤマトタケル』の舞台美術を担当していたので、猿之助さんと繋がりがあったのです。

 ですので、すぐにでも行動しようと、ある日、その朝倉摂さんを頼って猿之助さんに会いに行ったんです。

 あらかじめ話は通していただいて、そのお返事を聞くという形で、いよいよ実際に猿之助さんと面会ということになりました。どこかの劇場だと思うのですが、祖母と一緒に楽屋を訪ねたのだと思います。

 そうしたら、「今すぐ入門というわけにはいかないけど、国立劇場の養成所に行きなさい。卒業したらまた来なさい」と言われたのです。

 それはそうですよね。何も知らない、海の物とも山の物ともつかない15歳の少年を急に預かるのは難しい。そんなこと、今となってはわかります。それに、そのときすでに旦那の元には養成所を卒業して入門した先輩方がいたので、それなりに実績もあった。だから養成所で学んでから入門させるほうが、安心だと思ったのでしょう。私も養成所の存在は知っていたので「ではそこを受験します」と約束をして帰りました。そこから私は、養成所の受験に向けて動くことになるわけです。

 でもその前に、もうひとつ試練が用意されていました。

養成所が誕生した背景

 皆さんは「歌舞伎俳優」という肩書きで仕事をしている人間が、どのくらいいるかご存知でしょうか。増減はするものの、だいたい300人弱いて、そのうち約3分の2にあたるのが血筋の方、いわゆる梨園の方々です。

 ではそういった家柄のない人が、どのように歌舞伎俳優になるかという話になりますが、昔と今では違っています。江戸時代もきっとそうでしょうけど、明治から昭和のはじめ頃まで、それこそ飛び込みや紹介で、弟子になりたいと志願する方が大勢いらっしゃいました。今はもう現役の方ではいないかもしれませんが、最近までご活躍だったベテランのお弟子さんの中にも、丁稚奉公のような形で、小さい頃から住み込みで修行しながら、役者になった方は大勢いらっしゃいます。いわゆる、生活の中で芸を盗むような勉強の仕方です。

次のページ 家族から出された無理難題