再三言いますが、勉強に興味を見出せなかった私にとって、この条件はかなりハードルの高いものでした。それにこの条件を出されたのは12月。都立高校の受験が始まるのは2月ですから、残されていた時間はたった1ヶ月半ほどです。さてどうしよう。もしこの機会を逃したら、養成所の募集は2年に1回しかないので、また2年待たなくてはいけない。大急ぎで家庭教師の先生をお願いしました。さて先生も困った。今の私の学力だけでは、とうてい合格できるわけがないと踏んだ先生は、なんと受験合格のテクニックだけを集中的に教えてくださったのです。

 いったいどのような内容だったかは、今ではすっかり忘れてしまいましたが……。あのとき、勉強嫌いの私に突きつけられた無理難題に対して、諦めずに向き合ってくれた先生に出会えてよかったと思います。

 さて、その先生から受験テクニックを授かった私は、苦労の甲斐もあって、無事に都立高校に合格! 中学からの知り合いで、一緒に受験していた友達と自分の受験番号を見に行って、心から安堵したのを覚えています。正直なことを言いますと、受かるとは思っていなかったですから。他の受験生は、受験勉強から解放され、晴れて高校に進学できるという嬉しさだったのでしょうが、私にとっては「これで養成所の受験資格が得られた」という喜びでした。

何の未練もなかった1カ月の高校生活

 さて、ここからが私にとって本当の受験の始まりです。4月に入学した高校ですが、5月に待ち受けている養成所の試験を受けるため、たったの1カ月であっさりとやめたのです。約束だったとはいえ、実際にやめるときは本当に親に申し訳ないと思いました。なぜって、1カ月といえども、制服のブレザーは買わなければいけない。体操着も教科書も、科学の授業用の白衣も、何もかも全部揃えなければいけないわけでしょう。金銭的な面で親に負担をかけてしまったことは、少し後悔しています。

 もちろんすぐにいなくなる予定でしたから、友達をつくるでもなく、ただ1カ月、本当に在籍しただけの高校生活でした。束の間のスクールライフを満喫しようなんて少しも思わなかったので、全く未練はありませんでしたが、今思えば養成所に合格する保証もないのに、なぜすっぱりとやめることができたのか不思議です。

 今は歌舞伎役者の方でも、大学まで出ていらっしゃる方も多いです。いろいろな経験を積むことは舞台のためになるかもしれませんが、私のように血筋ではない人間は、学業に専念して舞台をお休みする、という概念はありません。ですので、このとき普通に学校に通ってもっと勉強しておけばよかった、とはならない。なぜならその分、歌舞伎俳優としていられる時間が少なくなってしまいますから。

 でも役者になってから、もっと本を読んでおけばよかったなと思うことはあります。役作りにも繋がるし、台本を読み込む力、その文字の裏にあることを考える力が役者には必要なので、やっぱりもう少し幼い頃から、活字に触れていればよかったなと。どんな職業に就くにしても、本を読むことは大事です。

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