あれは、バランスを崩して落ちかけた娘を引き寄せようとしたのだと思おうとする。けれど、そのそばから、そうではないと頭のどこかでわかってしまってもいる。

 あのとき、ユキはまだバランスを崩してはいなかった。ユキが川に落ちたのは――黒川が背中を押したから。

 そんなわけがない。黒川がそんなことをするはずがない。そう思うのに、あの姿が頭から離れない。

 黒川は、娘を突き落とそうとしたのではないか。

 だからこそ、助けてと口にしながらも、自分では助けに行こうとしなかったのではないか。

 ぎこちなく首を動かして黒川を向くと、黒川は、娘から離れないまま窪田を見上げる。

「窪田くん、本当にありがとう」

 いや、と答える声がかすれた。黒川の顔を直視することができない。直視してしまったら、何で、という言葉が喉から出てしまいそうな気がした。

 何で突き落としたりしたんだ。何で自分で助けようとしなかったんだ。なのに何で、そんなに無事を喜んでいるんだ。

 黒川が何を考えているのか、まったくわからなかった。ただ、ここでそんな疑問を口にしてはならないことだけはわかる。もしそんなことを言えば――殺人未遂だと告発するも同然だ。

 殺人未遂。

 自分が思い浮かべた言葉に、自分で愕然(がくぜん)とした。

 そう、あれは、一歩間違えれば娘が死んでいた行為だった。たまたま川に充分な深さがあって頭を打つようなことがなく、たまたま水の流れが緩やかな場所で、たまたま救助に慣れた自分がいて、たまたま長いロープがあったから大事に至らなかっただけで、そのどれか一つでも違っていれば取り返しがつかない事態になっていたかもしれない。

「ごめんなさい、同窓会を台無しにしちゃって」

 黒川が青ざめた顔で身を縮めた。

「何言ってんの、そんなのどうでもいいって」

 高松が黒川の肩を叩く。無事で本当によかったよ、と言われて、黒川はうつむくように頭を下げた。

「あの、窪田くん、車に夫の服があるから、よかったら……」

 と控えめな口調で切り出す。

「いや」

 大丈夫だよこのくらい、と続けそうになった言葉を窪田は吞み込んだ。本当に、このまま帰してしまっていいんだろうか。せめて、話を聞いた方がいいんじゃないか。

「……それじゃあ、お言葉に甘えて」

 窪田が言うと、黒川は頰を(かす)かに(やわ)らげ、高松に「念のためにこの子を病院に連れていきたいから、今日はここで失礼させてもらうね」と告げた。高松が「それがいいよ」と小刻みにうなずくのに会釈(えしゃく)で返し、地面に転がっていたリュックを背負い直して娘の手を取る。

 窪田はあえて高松の方は見ずに、黒川の後へ続いた。

あなたが正しくいられたとき

2026年5月22日
定価 1,980円(税込)
文藝春秋
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