この記事の連載

のちに大きな影響を与える選択

「大部屋のベッドが空いたんですが、移動しますか?」

 担当の瀧さんよりもひとまわりくらいベテランの看護師が、朝食を食べ終えた僕のもとへ聞きにきた。入院のシステムがよくわかっていなかったのだが、個室は1日あたり1万円のベッド代がかかり、大部屋はそのベッド代が無料なのだそうだ。

 2週間くらいで目が見えるようになり、退院できるだろう。となると、ベッド代は14万円か。

 それくらいならなんとかなるな、だったらこのまま個室で過ごそうーー絶望していたわりには楽観的に考えていた自分にあきれるが、とにかく個室に残る希望を、病院の看護師と、わが家の看護師(妻)にも伝えた。

 ところが、看護師というのは現実的だ。2週間やそこらでは退院できないことを、経験からわかっていたのだろう。暗に静かに、しかし力強く、大部屋への移動をすすめてきた。僕はしぶしぶと、それに応じざるをえなかった。

 お金の話は否応なしに、僕の意識を現実へと引き戻してくれた。お金というものは生々しく、生々しいからこそ、そこに「生」を実感することができた。それが一瞬だけだったとしても、悪夢から気をまぎらわすことになり、ちょっとした救いになったのだった。神経質な僕が見ず知らずの人たちと過ごすことができるだろうか、という懸念もあったが、このときの選択が、のちの僕の人生に大きな影響を与えることになる。

【後篇を読む】盲人の特殊能力を開発するセンターに通学!? 46歳のブラインド・コミュニケーターが“もし視力が回復したら?”の問いに思うこと

石井健介(いしい・けんすけ)

ブラインド・コミュニケーター。1979年生まれ。アパレルやインテリア業界を経てフリーランスの営業・PRとして活動。2016年の4月、一夜にして視力を失うも、軽やかにしなやかに社会復帰。ダイアログ・イン・ザ・ダークでの勤務を経て、2021年からブラインド・コミュニケーターとしての活動をスタート。見える世界と見えない世界をポップに繋ぐためのワークショップや講演活動をしている。また2012年からセラピスト活動を開始。自然体でニュートラル、自分の内側にある静けさと穏やかさを見つけるための水先案内をしている。
X:@madhatter_ken
Instagram:@kensuke_ishii_ecec

見えない世界で見えてきたこと

定価 1,870円(税込)
光文社
» この書籍を購入する(Amazonへリンク)

次の話を読む盲人の特殊能力を開発するセンターに通学!? 46歳のブラインド・コミュニケーターが“もし視力が回復したら?”の問いに思うこと

2025.06.27(金)
文=石井健介
撮影=小禄慎一郎