この記事の連載

 疲れ目だと診断されたのち、視力を失った石井健介さん。突然すぎる出来事に心身ともに追いつかないなか、闇の底から救ってくれた人たち、そして見えていたころには見えなかった、目には見えない大切なものとは……。

 失明後の日々を綴った石井さんの自伝エッセイ『見えない世界で見えてきたこと』(光文社)より、特別に一部を抜粋してご紹介します。


明日の朝、目が見えなくなるとしたら最後に何を見たい?

 海面からの光が揺らめくなか、頭上を悠々と泳いでいく体長8メートルのマンタレイ。アラスカの大地を力強く移動する、まるでひとつの生命体のようなカリブーの群れ。もしくは、ハワイ島のマウナケアの頂上から眺める、緑色の光を放つサンライズ。

 僕は圧倒的な地球の美しさを最後に見たいなと想像してしまう。

 あの日の朝、誰からもこの質問をされないまま、僕は目が覚めたら目が見えなくなっていた。

 まるで映画や小説のような出来事だ、そんなことが本当に起こるのか、と驚かれるかもしれない。しかしこの文章は、それが実際に自分の身に起こった男が、キーボードをリズミカルに弾きながら、文字どおりブラインドタッチで書いている。

 こんなふうに書き始めてみると、なんだか自分が映画や小説の主人公にでもなったみたいだ。

 けれど、人は誰でも自分の人生の主人公、十人十色。世界じゅうには何十億もの色があふれていて、僕はそのなかの1色にすぎない。僕の目はもうほとんど色を感じることができなくなってしまった。だから、これを読んでくれているあなたにお願いがある。僕が今どんな色を放っているのか、いつか機会があったら教えてほしい。

◆◆◆

「これは見えますか?」

「いや、見えません」

「では、これはどうですか?」

「いや、何も見えません」

 眼科の診察室。視力を測る機械をはさみ、看護師とのやりとりが続く。「見えません」と言葉にするたびに、受け入れたくない非現実的な現実を自分自身に突きつけているようで、心が小さく削られ、体から力が抜けていった。

 「疲れ目ですね」と少し軽薄な感じで言っていたあの医師は、昨日とは打って変わって神妙な面持ちで「やはり眼球には問題ありません。おそらく視神経に炎症が起きていると思われます。うちではこれ以上診ることができないので、すぐに大学病院に行ってください」と、紹介状を書いてくれた。

 朝起きたときよりも視力は悪くなっている。状況もどんどん悪い方向へと転がり始めている。

 ここから僕の記憶はしばらく途切れ、次の記憶は、大学病院の救急外来待合室のベンチの上だ。

 お酒が好きな友人から「酔っ払ってどうやって家に帰ってきたか覚えてないんだよね」と聞かされることがあるが、お酒が飲めない僕にとって、その感覚はいまいち理解できずにいた。しかしこのときばかりは、どうやってここにたどり着いたのか、まったく思い出すことができなかった。前後不覚とは、こういう感覚だったのか。

 すでに光も感じられないくらい、僕の目は見えなくなっていた。闇が僕の視界と心を覆いつくしていく。怖い、怖い、とにかく怖い。体を震わせながら、僕は隣に座っている妻の腕をつかむ。しばらくそうしていると落ちついてくるのだが、恐怖の波は断続的に襲いかかってくる。

 足元から突き上げてくるその感情の波にさらわれないように「ヤバい、怖い、怖い」と言葉にしながら、今度は無意識に自分の太ももの内側をつねっていた。

 身体的な痛み、それは“今ここ”でしか感じることができない現実。大波が次々と襲いかかってくる暗闇の海の上で、僕はその痛みという錨を海底に下ろすことで、難破し沈没するのを回避していたのだろう。と同時に、悪い夢であってほしいと何度も願っていた。夢であるならば、この痛みは感じないはずだ。しかしその大海に浮かぶ1本のわらのような希望は、太もものにぶい痛みと引き換えに、伸ばした手のひらをすり抜け、そのまま闇の中へと消えてしまった。

2025.06.27(金)
文=石井健介
撮影=小禄慎一郎