故郷になった「ごめん駅」の風景

 ところで、伯父が「柳瀬医院」を開業していたのは高知県(南国市)後免町です。子どもの頃に愛読した「少年倶楽部」に「日本珍駅名集」が載っていて「四国土讃線に、電車が着くたびに駅員が『ごめん、ごめん』と謝っている『ごめん駅』がある」と記されていました。

 その「ごめん駅」から直線距離で200メートルのところにぼくは住んでいました。住んでいる時には、少しも珍名とは思っていませんでした。今は駅前町という名前になっていますが、まったく風情がありませんね。ごめん町の方がはるかに面白い。

 柳瀬医院は町の中心部から少し外れて舟入川を渡ったあたりにありました。隣が浜田酒店、前が高橋石材店、その隣は製材所で、舟入川を流してきた材木を製材していました。その隣は原っぱ。

 子どもの遊び場としては絶好の地で、田んぼも畑も山もあって、小川では魚捕り、蛙を追いかけ、春は菜種とレンゲの花。

 桃や桜の木が家の庭にあって、秋になれば曼珠沙華が一面に咲く。夕暮れには山のお寺の鐘が鳴り、月光燦々、夏には蛍の乱舞。日本の平均的な農村風景ですが、幼少時代をこの土地で過ごせたのは、幸運なことでした。忘れられない夕暮れもあります。

 第二の父となった伯父は俳句を詠みました。オートバイにサイドカーをつけて田舎道をぶっ飛ばすような人でもあり、多趣味な遊び人でした。柳瀬医院は、歯医者や農業学校の先生など町の知識階級の人たちが集まるサロンみたいになり、ほとんど毎晩宴会をする家でもありました。ぼくが育ったのはそんな家です。

やなせたかしが中1で初めて書いたラブレター、返事はまさかの…「顔面蒼白、ぼくは手紙を破って捨ててしまいました」〉へ続く

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2025.06.30(月)
文=やなせたかし