「色とりどりのポップコーンが弾けるような」高い言語化力

早川監督自身が「ゴールを決めずに書き始めた」と述懐するように、断片的なシーンの連なりで構成されており、純粋がゆえに危うさもある少女の目を通して大人たちの複雑に揺れる多面性が描かれていく。闘病中の父親の死期が近づいて母親の雰囲気が変化したり、絵に描いたような理想の家族が実は歪な中身で、優しい大人が暗い欲望を抱えていたり――。主人公・フキ自身も未体験の死に憧れ「みなしごになりたい」といった不謹慎な作文を書き、興味本位で残酷ないたずらを仕掛けてしまう。善悪が未分化な人間の本性を客観的に観察しており、観る者の感度によって印象が変化する一作といえるだろう。そのぶん、演じるうえでは核心を掴めるかどうかがカギとなるが、鈴木は「大人でも難しい」といわれる読解力を要する難関シーンの数々を事も無げに演じ切っている。

「脚本を読んで、フキちゃんは大人のことを不思議に思っていて、観察している子だと思いました。かつ素直な性格で、思ったことをすぐに行動に移してしまう。常に周囲を見てニコニコしているタイプではないため、“感じたことをそのままやろう”と考えました。事前に早川監督と役どころや演技について話し合うことはなく、共演者の皆さんとオリエンテーションを一度行ったくらい。自分で勝手に演技を決めてしまい、ポップコーンマシーンの中で色とりどりのポップコーンが弾けるような感覚で出てくるお芝居に身を委ねていました」

映画の撮影は、大勢のスタッフに囲まれた中で自身の表現を提示しなければならない。感受性にフルベットする選択は並大抵のことではできないだろうし、感情を即表情や仕草、佇まいに反映させるのも技術が必要だ。鈴木はさらりと言語化するが、その端々に大物ぶりが垣間見える。続く言葉もそう。演技の秘訣について訊いたときのこと。鈴木は「無心」と答えたのだ。
「何も考えていないわけではなく、簡単にいえば思考のスイッチを切る感覚です。例えば家電はコンセントに差しておけば電気は通っていますよね。でも、電源をオン/オフにすることで切り替えられる構造になっている。私の場合もそれと同じです。実際、お芝居をやっていくなかで“パッと切り替えられないと難しい”と実感しましたし、そもそも演技というもの自体が切り替えなのかもしれませんが」

この論理は誰かに教えられたものではなく、自分自身で気づいたというから恐ろしい。しかし本人は「私なんてまだ2年しか演技をやっていない下っ端。あくまで、今わかるのがそれくらいというだけです」と謙虚な姿勢を崩さない。自身がまだ成長過程のただなかにあり、スポンジのように吸収している実感があるが故だろう。本作でリリー・フランキー、石田ひかりと親子を演じた彼女は「出会う人みんなが大先輩」としつつ、河合優実との共演シーンの想い出を目を輝かせて語る。
2025.06.20(金)
文=SYO
撮影=榎本麻美