直木賞受賞作『藍を継ぐ海』は日本各地を舞台に、そこで暮らす人々の人間模様を科学の営みとともに描いた短編集である。この手法は今や伊与原新のお家芸と言えるが、そのつもりで著者の初期作を手に取ると驚くかもしれない。
デビュー作の『お台場アイランドベイビー』は首都圏直下型地震後の東京を舞台に、ストリートチルドレンを巡るSF風味の入った骨太な社会派サスペンスだった。一部に登場する地震学者の言動に理系要素は見られるものの、全体としてはアクションあり謀略ありのエキサイティングなエンターテインメントだ。

新人離れした筆致に驚かされたものだが、続く『プチ・プロフェスール』(『リケジョ!』に改題文庫化)にはまた別の驚きがあった。デビュー作からは一転、理論物理学を専攻する大学院生の女性が、家庭教師先の“リケジョ”志願の小学生に振り回されつつ、いろいろな事件を解決するというユーモラスなほのぼの連作ミステリーだったのだから。
本書以降、しばらくは科学者やその周辺人物を主人公にしたミステリーを相次いで発表する。
論文の捏造や盗用を主題に据えた『ルカの方舟』、地球のS極とN極が反転するという壮大なスケールのパニックSF『磁極反転』(『磁極反転の日』に改題文庫化)。『博物館のファントム 箕作博士の事件簿』は自然史博物館を舞台に、動植物から鉱物までバラエティに富んだ自然物をモチーフにした連作ミステリー。『梟のシエスタ』(『フクロウ准教授の午睡(シエスタ)』に改題文庫化)は象牙の塔のパワーゲームを変わり者の准教授が搦手から解決していく連作だ。『蝶が舞ったら、謎のち晴れ―気象予報士・蝶子の推理―』では、高飛車な気象予報士が天気にまつわる事件の謎を解く。

硬派でシビアな長編あり、ライトな連作ありとその作風は幅広いが、理系の知識を活かした謎解きを軸に据える作品がここまでは多かった。だが転機になったのは二〇一六年に刊行された『ブルーネス』ではないだろうか。
東日本大震災のあと、予知できなかったことを悔やむはぐれ者の科学者たちがチームを組んで津波予測に挑むというこの物語は、主人公こそ専門家だが、彼らがさまざまな人々を巻き込んでいく様子がひとつの読みどころとなっている。それは地震や津波という災害は――ひいては科学は学者だけのものではなく、私たちの暮らしの中に存在し、日々の生活に深く関わっているというメッセージに他ならない。また、本書はミステリーを離れた初めての作品でもあった。

2025.03.09(日)
文=大矢博子