家庭内で何度も起きた、“修羅場”の数々

浅野 私が津で通った一身田小学校では、校長先生が、めいめいの児童に与えられた番傘に、筆で名前を書いてくれるのよ。雨が降ると、その傘を差して帰ったことを覚えてる。

近田 番傘! ずいぶんと時代を感じさせるエピソードだねえ(笑)。

浅野 そんな中、母はとある同業者のクリーニング屋の男性と知り合い、彼の優しさに惹かれて恋愛に発展したのよ。でも、ややこしいことに、その人は妻子持ちだった。その関係を面倒がった母は、私を連れて横浜に戻ってきたの。そしたら、その男の人が追いかけてきちゃってさ。

近田 ええっ、津に家庭があるのに?

浅野 そう。奥さんが、私たちの家の玄関先で「夫を返してください」と言ってたのを覚えてる。返すも何も、ちょうだいなんて頼んでないわよと思ったけど(笑)。

近田 修羅場だねえ。

浅野 結局、私たち母子はその男性と一緒に暮らすことになった。でも、やっぱり、優しい人っていうのは曲者でさ。誰に対しても優しいのよ。また、母とは違う子持ちの女の人と付き合い始めちゃった。すったもんだの末、元の鞘に収まったんだけどね。

近田 懲りない人だなあ。順子さんは、横浜ではどの学校に通ってたの?

浅野 中学校は、横浜市立南が丘中。高校は、京浜女子高校(現・横浜創英高校)に入ったけど、私は何しろ学校が嫌いだったから、途中でやめちゃった。

近田 その後はどうしてたわけ?

浅野 すでに中学の頃からそうだったんだけど、自宅には帰らず、いろんな友達の家を転々としてた。横浜だけじゃなく、船橋にも友達がいたし、小岩にもいたし。その頃、家に電話をしたら母が出た。でも、「ウウウウ……」と唸るばかりで、しゃべれないのよ。私を案ずるあまり、心労がたたって口がきけなくなってしまったらしい。

近田 心因性の失声症というやつだね。

浅野 そんな中、久しぶりに家に帰ったら、その二番目の父に、初めてバシーッと頬を叩かれた。「何てことするんだ!」って。

近田 そのお父さんの気持ちも分かるよ。そして、ハイティーンを迎え、ハマに名を馳せる浅野順子の伝説が幕を開けるわけだよね。この続きが楽しみだよ!

〈次回に続く〉

浅野順子(あさの・じゅんこ)

1950年横浜市出身。ゴーゴーダンサー、モデルなどを経て結婚し、ミュージシャンのKUJUN、俳優の浅野忠信の2児を儲ける。ブティックやバーの経営に携わった後、独学で絵画を描き始め、2013年、63歳にして初の個展を開催。その後、画家として創作を続ける。ファッションアイコンとしても注目を浴び、現在は、さまざまなブランドのモデルとしても再び活動を繰り広げている。

近田春夫(ちかだ・はるお)

1951年東京都世田谷区出身。慶應義塾大学文学部中退。75年に近田春夫&ハルヲフォンとしてデビュー。その後、ロック、ヒップホップ、トランスなど、最先端のジャンルで創作を続ける。文筆家としては、「週刊文春」誌上でJポップ時評「考えるヒット」を24年にわたって連載した。著書に、『調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝』(リトルモア)、『グループサウンズ』(文春新書)などがある。最新刊は、宮台真司との共著『聖と俗 対話による宮台真司クロニクル』(KKベストセラーズ)。

2025.01.15(水)
文=下井草 秀
撮影=平松市聖