父はアメリカに帰国、母と一緒に日本に残ることに

近田 へえ、芸者さんだったんだ。

浅野 そう。母の父、つまり私の祖父が、満洲で芸者の置屋を営んでいたのよ。大連で生まれ育った母は、南満洲鉄道、いわゆる満鉄に勤める相手と結婚してたんだけど、その人とは離婚して、終戦後、ひとりで日本に引き揚げてきたらしい。

近田 そして、運命の出会いに至ったわけだ。

浅野 ところが、私が4歳になった頃に、父は、進駐軍の引き揚げに伴って、アメリカに帰っちゃったのよ。

近田 じゃあ、お父さんと暮らした記憶は、あんまりないのかな。

浅野 覚えてるような、覚えてないような、そんな感じ。ただ、当時住んでいた家の向かいに横浜国大のグラウンドがあったんだけど、ある年のクリスマスイブに、そこにヘリコプターが着陸して、機内から、七面鳥と大きなもみの木のクリスマスツリーを抱えた父が出てきたことは鮮明に覚えてる。

近田 ずいぶんドラマティックな光景だねえ(笑)。お母さんと順子さんを連れて帰国するっていう選択肢はなかったわけ?

浅野 当時の日本人女性にとっては、生半可な覚悟で渡米することなんかできなかったんじゃないかな。まだまだ差別も激しかっただろうし。それであきらめたんだと思う。ギリギリまで迷ってたみたいだけど。

近田 そもそもさ、二人の間の意思疎通はどうしてたんですか。英語なり日本語なり、共通言語はあったわけ?

浅野 それが、お互い、相手の母語はほとんどしゃべれなかったの。だから、父が帰国してからというもの、母は、近所に住む英語ができる人に、手紙を翻訳してもらってエアメールを送っていた。

2025.01.15(水)
文=下井草 秀
撮影=平松市聖